日本人が「暫定解」を手に入れるには―歴史学は役に立つのか? 與那覇 潤 第3回(最終回)
歴史を学ぶことによって、現代社会が抱える問題に「対案」は出せるのだろうか――? NHK「ニッポンのジレンマ~民主主義の限界?」に出演し、歴史研究の蓄積を実践の場へと導き出した、新世代の歴史学者・與那覇潤。危機の時代だからこそ有用な、未来志向の歴史の学びとは。「使える」歴史学を身につけるための心構えを説く。
與那覇 潤 (ヨナハ・ジュン)
1979年生まれ。歴史学者。愛知県立大学准教授。専門は日本近現代史。著書に『翻訳の政治学』(岩波書店)、『帝国の残影』(NTT出版)、『中国化する日本』(文藝春秋)、『史論の復権』(新潮新書)、共著に『「日本史」の終わり』(PHP研究所)、『日本の起源』(太田出版)など。
模範解答的な安心感は不自由な社会しか生まない
Q,現代の若者が、今後身につけておくべき“力”とはなんでしょうか。
A,前回お話ししたことに尽きる、と思います。ひとことでいえば、「正解や模範解答がない状態で、それでも自分なりの『暫定解』を見つけてゆく力」ですね。
実は、それこそがヨーロッパ的な意味での「近代化」の一番コアにある力であり、逆に、一見いかに「近代化」したようにみえても、日本にも中国にも長らく欠けてきたものなんじゃないか、と思っているんです。
日本社会はつねに「江戸時代的」な方向にズレる、というのは、社会的な「自分の正しい居場所」を、正解として与えられてしまう世の中を作りがちだ、ということです。
本当の江戸時代だったら、生まれ落ちた「身分」、より細かくいえば「イエ」がそれに当たります。どの家に生まれたかで、住むべき場所も就くべき仕事も「正解」として決まっちゃっていて、それを逸脱したら「間違い」扱いされてきたわけ。
そして同じように、ごく最近まで日本の企業は終身雇用で、おまけに新卒一括採用だから、一生に一回だけ職業を選ぶチャンスがあって、そのとき選んだものだけが「正解」だからそこで生きてけ、という社会になっていた。
ライフコース的にも、男だったら大卒正社員、女だったらそういう男をみつけて専業主婦ないしパート主婦、それで最低1人かできれば2人は子供を作って、老後は彼らに食べさせてもらう、みたいな「模範解答」が決められていて、それにしたがっていれば安心、その代わりしたがわないやつは知らない、という雰囲気だったわけです。
一方で、中国という国は昔から、今風にいうとノマド社会、ネットワーク社会だったところがあって、「居場所」の自由度は高かったのですが、こちらはこちらで「正しい思想」や「正しい考え方」を、正解として一つに決めてしまうんですよね。だから、「である」と「あるべき」が一体化されちゃうわけです。特定の価値観の下で「あってはならない」ものは、当然、この世のどこにも「存在してはならない」、というか「存在しない」という風に思い込む。
いや違う価値観だってありえるでしょう、とか、思想的な「正しさ」と現状認識としての「正しさ」とは別でしょう、という異議申し立てを拒否することで、「みんながノマドになっても解体しない社会」を作ってきたのが中国だと思います。それに反抗する人は、原理的に「いない」。なぜなら、そういう「正しい思想」に違和感を覚えるような「間違った人」は、「いるはずがない」、いたとしたらもうすでに「人ではない」から(笑)。
居場所という形で与えられてきた、日本社会の「正解」供給能力は、長期不況による企業共同体の解体や、ひとびとのライフコースの多様化で、もう維持不可能になっています。
かといって、特定の価値観だけが「正解だ!」という形で、模範解答的な安心感を求め続けるかぎり、そこには非常に不自由な社会しか生まれません――インターネットの掲示板やSNSを見てください。居場所としては本来バラバラで多様なはずの人々が、ものすごく狭い嗜好や価値基準に執着し、ひとつの意見に凝り固まって仲間意識にすがりつく光景がありませんか? だとすれば、もう中国を笑えないわけですよね。
ヨーロッパ的な近代社会というのは、ガチガチの「正解」に固執する人々どうしが互いに「間違った人々」を虐殺しあう宗教戦争(カトリックとプロテスタントの内戦)を経た結果生まれた、「もう、どこかに『正解』があると考えるのは止めにしよう。絶対的な価値観なんてないこと、すべては暫定的な基準にすぎないことを前提にして生きていこう」という反省のもとに築かれてきたものだと思います。
そのような教訓を、はたして私たちは欧米人が起こしてきたような大戦争ぬきに体得することができるか。それがいま、日本人が向きあっている最大の課題だと思います。
おわり