“ガチンコバトル”を避ける知恵—新世代の日中関係論【前編】與那覇潤×家永真幸×福嶋亮大
日中国交正常化40周年を迎える本年。先の大戦を知らず、国交正常化当時もまだ生まれておらず、物心つくころには冷戦も終焉を迎えていた--そんな、新世代を担う若き俊英たちの目に、日中関係はどう映っているのか。これまでの歴史的文脈に新たな展望を加えるべく、南山大学アジア・太平洋研究センター主催のシンポジウム「新世代の日中関係論―日中国交正常化40周年に寄せて」が開催され、三者の熱い討論が行われた。(2012年10月27日 於 南山大学)
家永 真幸 (イエナガ・マサキ)
1981年生まれ。歴史学者。東京医科歯科大学教養部准教授。専門は中国近現代史、中台関係史。著書に『パンダ外交』(メディアファクトリー新書)がある。
福嶋 亮大 (フクシマ・リョウタ)
1981年生まれ。批評家、中国文学者。現在、京都造形芸術大学非常勤講師。著書に『神話が考える ネットワーク社会の文化論』(青土社)がある。
與那覇 潤 (ヨナハ・ジュン)
1979年生まれ。歴史学者。愛知県立大学准教授。専門は日本近現代史。著書に『翻訳の政治学』(岩波書店)、『帝国の残影』(NTT出版)、『中国化する日本』(文藝春秋)、『史論の復権』(新潮新書)、共著に『「日本史」の終わり』(PHP研究所)、『日本の起源』(太田出版)など。
友と敵を分けない政治の知恵
(左から)與那覇、家永、福嶋
與那覇 本日はせっかく、1980年前後の生まれの論者3人が日中関係を論ずるという珍しい機会になっておりますので、それぞれが会場の皆様からの質問に答えるとともに、お互いの報告にもコメントする形で議論を深められればと思います。
たとえば、私に寄せられている質問に目立つのが、「中国の伝統的な政体である『一君万民』主義の特徴は徳治(道徳性による政治)だというが、現実の中国政治を見ても全然道徳的ではないように見えるのだが」というもの。これを出発点にしてみましょう。
中国が徳治主義の国である、そこでは政治の正当性の根拠が道徳性に置かれているというのは、「実際に」道徳的な政治をしているという意味ではないのです。そうではなく、国民全員に共通する道徳(前近代なら儒教道徳、今日なら共産主義)の体現者であるという「建前」を振りかざすことで、皇帝なり党なりが権力を独占しているという意味ですね。その帰結としては、「常に政治に道徳感情が持ち込まれる」という事態になります。
西洋型の自由民主主義はそうではなくて、むしろ政治と道徳とを切り離す点に特徴がある(典型的には政教分離)。だから、科挙のような思想試験で政治家を選ぶということは当然許されなくて、不道徳だろうが、思想的に変わったところがあろうが、とにかく「獲得票数が多い人が政治家になる」という形式で選挙をやるわけです。
これはこれで居心地が悪いんですよ、自分の道徳的・思想的価値観では「ありえない!」という奴が票数の多さだけで通ってしまうのだから。しかし、そうすることで初めて、個々人の価値観の多様性が保障される。
「道徳なんて人それぞれバラバラです」と割り切っているからこそ、政治家を選ぶ際の基準が道徳と無縁なもの(票数)になると同時に、政治家が自分の道徳を国民に押しつけることにもストップがかかるわけです。
道徳は個人の内面の問題なのだから、そこには触れない範囲で可能なことだけをやっていこう、というのが西洋型の政治です。いわば、徳治を諦めたところに成立する民主主義。
ところが、日本人は中国ではなく西洋から民主主義を学んだと言いながら、諦めが悪いんですね。だから政策論争よりスキャンダルの方が政局を動かして、「あんな不道徳な奴が、たまたま選挙で勝ったからって政治家をやっていていいのか」みたいな話になる。脱原発や尖閣のように、「個々人の問題じゃない。日本人の心があるなら答えは一つだ!」というテーマばかりが盛り上がるのも同じです。その意味では、議会制こそ西洋から借りてきているものの、日本人も実は中国人と同じくらい諦めが悪い。
私の報告では、それを日中両国に共通する「政治的な欠点」として指摘したのですが、しかし福嶋さんのご報告には、むしろその諦めの悪さというものを、もっとポジティブな可能性として評価していくこともできるのではないか、というメッセージがあると感じました。
「世の中そんなもの。道徳的な政治なんてどうせ実現しない」と割り切ってしまうと、これは通俗的な“東洋的無常観”の世界になってしまって、復興文化にはならない。しかし実際の東洋では「尭舜の治世に帰れ」に始まって、かつてあったはずの理想的な秩序を回復しようとする復古主義が、現状をなんとか改善しようとするバネになってきた。様々な文学がそのことを表現してきたと。
ヨーロッパの近代的な自由民主主義は、政治と道徳の一致を断念するところから始まるわけですが、いつまでもそこを諦められない東洋の文化を、西洋に対する遅れではなく、むしろ可能性しても捉え返せるのではないかということを、「復興文化」という概念で表現されたように私は受け止めました。
つまり、「政治」と「文化」を区別せず、別物と割り切らないことが東洋の力になっているのではないか、という福嶋さんの主張は、同じものをネガティブに捉える側とポジティブに捉える側ということで、私とちょうど180度対になっているのかなと思います。
福嶋 「政治」と「文化」の話に関して言えば、カール・シュミット的には「友と敵を分ける」ことが政治の根本原理ということになっていますね。それに対して「文化」というのは、友なのか敵なのか分からない領域を作っちゃうということです。例えば、韓国人は好きじゃないけれども韓流ドラマは好きとか、文化にはもともと遠近法を狂わせる能力があるわけです。
日中関係に関しても、こういう能力をうまく利用していくべきではないか。友と敵を政治的に峻別してしまうと、最後には必ず相手の存在論的殲滅にまで行ってしまう。そこに行かないようにするための知恵が必要だと思うんです。尖閣問題に関してもそうで、例えば橋下徹大阪市長が言うように国際司法裁判所に持っていって、友でも敵でもない第三国に調停してもらうというのは有力な考え方でしょう。あるいは李登輝が言うように、台湾との間では尖閣周辺の漁業交渉をやって、少しでも歩み寄りの姿勢を示すことも有益ではないか。
ともかく、日本人と中国人がガチンコでバトルしますというのは最悪なので、日中の政治的な二者関係のなかに第三者的な司法なり、ソフトパワーなりのノイズを入れていくべきだろうと思うんです。僕が「東洋の復興文化」という大まかな図式を出したのも、そのための一つの前向きな提案のつもりです。
與那覇 そして、ちょうど私と福嶋さんの中間に位置するのが、「パンダ外交」についての家永さんの報告ではないかと思います。
中国は、これまで「友好のしるし」としてたびたび外国にパンダを贈ってきたわけですが、それは同国に独特、かつ非常に巧妙な外交戦術の一環でもあった。戦略的に「政治」と「文化」を混ぜることで、いかに巧みに外交を運営してきたかということを、パンダという事例でご報告になったものとして伺うこともできるのではないかと。
これはある意味で、非常に大きな一つの知恵であります。「おたくの国は気に入らん」と、はっきり「政治の言葉」で言われて怒らない国民というのはいないわけですが、文化というクッションが1枚入ることによって、100パーセントガチンコの政治的な紛争になることを回避できる。パンダを贈る/贈らないといった形での微妙なシグナリングであれば、即殴り合いまで行かずに済むわけですね。
「文化」というものをバッファー(緩衝材)として噛ませることによって、冷戦下の非常にハードな国際関係をモデレートしてゆく、成熟した外交の知恵があったということをご報告になったのではないかなと感じました。
すべてを「国VS国」で見ない
家永 会場から私に寄せられた質問を2つご紹介します。
まず「パンダから読み取るべき変化とは、日中関係が深刻化したということなのか、それともパンダが政治・外交から切り離されたということなのか」というご質問が一つ。
40年前にパンダが初めて日本に来た時は、政府が「これは日中友好のシンボルです」と決めて、みんなもそういう見方でしかパンダを受け入れなかった。それが、40年経ってみたらパンダの見方が複雑化して、パンダをめぐる「友好」以外の要素がどんどん増えてきている。
例えば、最初は政府間でしかやり取りしていなかったパンダが、都市間でやり取りされるようになったり、贈呈からレンタルへと方法が変わったりした。これは何を反映しているかというと、日中関係とか相互イメージというものを政府がコントロールできていた時代から、個々人が双方のイメージを作るような時代になってきたということなのです。そこにはビジネスも絡んでくるし、国際ルールも絡んでくる。パンダをめぐる状況が複雑化してきた、というのが私の言いたかったことです
それと関連して、会場から寄せられたご指摘のなかに、「日中友好の感情が後退しているという一方で、日本人の中国に対する関心は、どんどん高まっているではないか」というものがありました。
これには思い当たるところがあって、今学期になって突然、去年まで開講していた中国語の授業の人数が3倍ぐらいになるという現象が起こっているんです。受講者にアンケートをとると、「こんな時代だからこそ中国をちゃんと理解しなくては」と書いてくる学生がすごく多い。
つまり、一人一人は中国に結構興味を持っている。中国に対するイメージは悪化しているのに、中国に対する興味は高まっている。
こんな状況ですから、パンダがそうであるように、物事すべてを国と国の関係で見ないで、物事の背景にある国家間関係以外のいろんな要素を見るようにしようと提言したい。
皆さんの目の前に、中国がらみのものや人というのは、今、山ほどあると思うんです。それを国家間関係の枠組みで見ない。人であれば、人と人の関係で見るべきだと思います。
家永 2つめの質問です。「パンダを平和利用するとして、中国の本音はどこにあるんですか?」、あるいは「日本はこれからパンダをどういう理由で受け入れていけばいいのか」という質問があります。
これは深刻な問題なんです。パンダをめぐる状況は複雑化しているのだけれども、結局「これは中国の宝物で、ここからここまでは中国の領土です」という宣伝のためにパンダが使われる側面もあり続けているわけです。
一方で、それはパンダだけではなくて、日本側もセンカクモグラ(*)をそういうところに使ったりしている状況があります。本来緩衝材的にしておいてよかったようなものを、無理に領土問題だとか主権問題に結び付ける傾向が出てきている。それに対して、われわれはどうしていくべきかと考えると、今ここでは簡単には答えを出せません。
けれども、結局は係争中の双方が、どこまで共通の価値観や理念を持っているか、どこまでなら一緒になれるかというところも考えていかなきゃいけないということではないかと思います。
與那覇 かつて有効だった「文化」という緩衝材が機能しなくなった背景には、日本でも中国でも、政権担当者が民意に対して脆弱になってきていることがあるように思います。
55年体制が終わって日本の政権与党は不安定になり、中国共産党の支配も毛沢東や鄧小平の頃ほど磐石じゃない。そのことをわれわれは「民主化」の進歩と呼んできたのですが、しかし徳治の伝統の強い東アジアで、民意が政治に反映する度合いが高まることは、常によい結果を生むとは限らない。道徳的な感情と結びついた民意が政治に入ってくると、かえって国家間のやりとりにおいて、うまいところで手打ちすることが難しくなっていく。「100%こちらの主張を押し通すまで妥協しちゃダメだ」と大衆に突き上げられて、政権担当者がとれる選択肢が少なくなってしまう危険性が高い。
「イメージ」と「身体」
福嶋 なるほど。一国の民意だけだと、極端な方向に行ってしまうという話ですよね。ですので、民意の生じる“リズム”みたいなものを変えていかないと、危険だろうなということは僕も思います。
例えば、さっき與那覇さんが講演で触れていた東浩紀さんの『一般意志2.0』という本では、インターネットにおいて人々の民意がもっともよく反映されつつあるのではないか、という仮説が立てられている。僕もそれに共感しますが、しかしこれからは、ネットの集団的=一般的な意志プラスアルファの問題として「身体」がポイントになってくると思うんです。
実際、ネットのコミュニケーションは身体がないせいで、相手の言葉が脳髄に直接突き刺さってくる感じがある。感情を持った身体があるから人間はバカになる、と普通は考えられるわけですが、逆に身体をともなうからこそ、人はある程度理性的になれるとも言えるんですよ。
例えば今こうやって対面でしゃべっているときは、相手の顔の表情とか雰囲気を見ながら、細かく発言を調整しますよね。「こういうこと言ったらまずいかな」とか考えるから、ある程度コミュニケーションが安定するし、議論もできる。だけど、ネットってそういう身体的なリズムが全然働かないので、ものすごく純粋化した意志のぶつけあいになる。もちろん、意志を集めるぶんにはネットは便利なツールですが、領土問題になると、今與那覇さんが言ったように政治的リスクになる。
そもそも考えてみると、尖閣や竹島そのものが身体性を介在させられない、特殊な領土問題ですね。例えば沖縄や対馬が侵略されているというのなら、住民に対する身体的共感も働く。
しかし、尖閣・竹島みたいな無人島には身体的共感もへったくれもないので、国民は抽象的な観念によってそこを領土と認識してるだけです。ここでも身体の連続性がないせいで、ただナショナルな意志や観念だけが暴走しちゃうわけですね。そういうわけで、バッファーとしての身体とか、バッファーとしての東洋イメージとかが重要になってくる気がするのですが、どうでしょうか。
與那覇 ある時期まで両国の緩衝材として機能していた、たとえばパンダ=日中友好といった「イメージ」の重要性と、今おっしゃった「身体」が議論の際のバッファーになるという指摘とはかなり重なりますよね。ネット上の仮想空間(サイバースペース)で議論すると、そこには情報や言葉だけで身体がないから、極論どうしの争いになっていく。同じ構図が、ロジックとイメージの関係にも当てはまるのではないかと。
福嶋 その通りですね。
與那覇 ロジックだけで押していくと、どちらも「わが国固有の領土であります」と主張するしかないから、最後は「じゃあ戦争して決めますか」という話になる。それに対して、どこかでなんとか共存できるための「イメージ」というものを間に挟んでいく必要がある。新たな緩衝材の再構築ですね。
家永さんも福嶋さんも報告で言及されたように、国交正常化10周年を経て胡耀邦が来日して「中国に親近感を覚える日本人」が70%を超えた1980年代であれば、「パンダかわいいね」というイメージの共有だけで、十分いけそうだと思えたわけです。しかし40周年となってもはやそう単純ではなくなってきた時に、どういう「イメージ」が戦略的に使えるかを議論していく必要があると。
福嶋 家永さんの講演にもあったように、中国はパンダを使ってうまく外交したわけですが、日本に外交に使えるブランドが何かあるかというと、少なくとも自覚的には持っていないですよね。そこは日本の国家戦略の弱点でしょうけど……。まぁ、一人の人文系の研究者としては「復興文化」みたいなイメージを地道に作っていくしかないかな、と思っています。
【続く】