「“いいね”時代のツナガリ論」番組収録後インタビュー:與那覇潤
2013年5月26日(日)0:30~1:30〔土曜深夜〕放送予定のニッポンのジレンマ「“いいね”時代のツナガリ論」収録後、出演者のみなさんにインタビューを行いました。
與那覇 潤 (ヨナハ・ジュン)
1979年生まれ。歴史学者。愛知県立大学准教授。専門は日本近現代史。著書に『翻訳の政治学』(岩波書店)、『帝国の残影』(NTT出版)、『中国化する日本』(文藝春秋)、『史論の復権』(新潮新書)、共著に『「日本史」の終わり』(PHP研究所)、『日本の起源』(太田出版)など。
――空気を読む、読まないという議論がありましたが、ご自身はどう思われましたか?また、なぜそう思うのかなどをざっくばらんに教えてください。
與那覇
番組のアンケート「会議などの話し合いの場で『空気を読む』ことについて、あなたはどう思いますか?」の4択で、私だったらD「空気を読む必要などないし、自分も読まない」を選ぶと思うのですが、どうやら同志は15%もいないらしい。逆に「空気を読むべき」という人が6割5分で、「実際に空気を読んじゃう」人が7割を超えている。
いかに日本が「空気の社会」とはいえ、正直衝撃を受けましたね。ニッポンのジレンマのような教養番組の、しかもウェブでのアンケートだったら、回答者の側にも絶対「俺って、周囲よりちょい意識高いぜみたいな回答をしちゃおう」的なバイアスがあると思うんですよ(笑)。その補正がかかってもこの数値というのは、多くの人が「しかたなく」空気を読んでいるというより、読むことが本当にいいことだと思っているのでしょうね。それとも「KY」(空気読めない)というスラングが昔流行ったように、空気を読むことが「能力」として捉えられているからなのかな?
「読める/読めない」という言い方をされたら、それは読めた方がいいと思っちゃうのが自然かもしれませんが、実際にはその上に空気を「読ませる」人がいるんですよね。実は彼らが、空気リテラシーの見えざる最高カースト。どうして空気で決めるかといえば、議論で決めたら「提案した人」や「賛成した人」に責任が発生するからなんですよ。もしくは、明示的な形で「命令」してやらせたら、失敗した場合の責任を、間違った指示を出した側が負わないといけない。それを回避したいから、はっきり言葉で命令せずに態度でほのめかして、多数決を取らずに「自然と」全員が合意したように会議を持っていく。
空気を読ませている人たちは、いざとなったら「俺は命令してない。君らが決めたから従っただけだ」とかいって逃げるから、実権だけ握りつつ責任はみんなに負わせてフリーライドできる。まさに読ませ得なわけです。逆にいうと、その他大勢にとっての空気とは、権限もないのに責任だけ負わされる「読み損」。だから、実は立場が弱い人ほど、会議の空気は読んじゃダメ。しっかり、「少なくとも私は反対だから、責任を負う順番は最後にしてもらいますよ」といって、「この決定は全会一致じゃないぞ」と示しておくスキルを身につけることの方が、「空気が読める」よりもずっと大事だと思います。
――ネット登場以後のネットワークとコミュニティの議論がありましたが、ご自身はネット登場以後、新しく参加された・広がったコミュニティなどはありますか? その変化や可能性などについて、ざっくばらんに教えてください。
與那覇
地理的な意味で同じ場所にいない人とでも、ネット上で「バーチャルな場所」を共有できるようになったのは大きな変化ですね。個人的にも、先日初めてオフ会という場に行ってみたのですが、まずはバーチャルな形でコミュニティを作ってから、それをリアルなものに変換する装置が色々生まれてきている。それ自体は、イエ/ムラやカイシャといった現実の共同体の衰退に悩んできた日本人にとって、ひとつの福音だと思います。
ただ少し気になっているのが、たとえばツイッターを見ていると、使い方として両極端の問題を感じることがあるんですね。どういうわけか、特定の相手に絞って「個人宛」に書かれたものだと、完全に「言いっぱなし」の口汚いメッセージが届きがちなんです。一方で、特に誰相手でもなく「社会」に向けてつぶやかれたものの方に、なんだか過剰に「他人からの目線」を意識してるのかなと感じるものがある。世間で「意識が高い」と言われる立場からの意見じゃないと! とか、どこからもクレームがつかないように、とにかく絶対安全な内容しかしゃべらない! とか。私自身も近いことをやっちゃうことがあるので、反省しているんですけど。
たぶん、地理的に同じ空間で対面している場面以外での会話の作法を、まだうまく編み出せていないんだと思います。だからネットで発信するという時点で、いきなり政治家みたいに「国民全体」を意識しちゃって、言いたいことを言う前に「失言しない」ことを優先してしまうか、逆に面と向かっては絶対に出せない自分の醜悪な部分を、見知らぬ相手だからいいや、とそのままぶつけちゃうか。
やたらと暗号めいた隠語(ネットスラング)を作って、使いこなせる人どうしだけでバーチャルなムラに閉じこもるのは、そういうストレスから逃れるための、ひとつの対処法でもあったのだと思います。ただ、それだけでは少し寂しいので、「下品にならずに本音で話せる」というか、誰もが自然体でのびのび議論できるような「空気」が生まれるといいですね。