「あるべき」ではなく、いま「ある」ことに注目する―歴史学は役に立つのか? 與那覇 潤 第1回(全3回)
歴史を学ぶことによって、現代社会が抱える問題に「対案」は出せるのだろうか――? NHK「ニッポンのジレンマ~民主主義の限界?」に出演し、歴史研究の蓄積を実践の場へと導き出した、新世代の歴史学者・與那覇潤。危機の時代だからこそ有用な、未来志向の歴史の学びとは。「使える」歴史学を身につけるための心構えを説く。
與那覇 潤 (ヨナハ・ジュン)
1979年生まれ。歴史学者。愛知県立大学准教授。専門は日本近現代史。著書に『翻訳の政治学』(岩波書店)、『帝国の残影』(NTT出版)、『中国化する日本』(文藝春秋)、『史論の復権』(新潮新書)、共著に『「日本史」の終わり』(PHP研究所)、『日本の起源』(太田出版)など。
過去には異世界もユートピアも存在しない
Q,歴史研究者として、現代における歴史学の役割とはどんなことだと思われますか。
A,「歴史的に語ること」の強みは、「なぜ、いまこのような日本になっているのか」を、できるかぎり感情を排して説明できるところだと思うんです。
たとえば、「あるべき」もの(当為)を構想する哲学的、思想的な語りは、「このような社会を目指そう!」という積極的なビジョンを提示することに強い反面、「ではなぜそれが実現しないのか」という問い返しには弱いところがある。社会科学の言葉で「あるべき政策」を提案していく場合にも、同じジレンマがあると思います。そしてそこに、個人の実体験や当事者性に基づく語りを重ねると、現状を「糾弾」する上ではものすごく強い力を発揮できるのですが、一方でそのエネルギーをなかなか「代案」に練り上げていくことが難しい。
今日の日本のいきづまり感、先行き不透明感も、ひとつにはそこから来ているように思います。
そういう時に、現状がそういう「あるべき」からかけ離れた現状としていま「ある」こと(存在)には、たぶんこういうゆえんがあるのではないでしょうか、と申し出るのが、「歴史的な語り」が果たせる役割ではないかな、という印象を持ちました。それぞれの特性を活かしながら、いろいろな分野の人どうしが、補いあっていければいいのではないでしょうか。
Q,歴史を現代に生かすには、どういう思考回路が大事でしょうか。
A,自分が普段の授業で心がけていることでもあるのですが、まず歴史を「異世界の探求」だと思うのをやめたほうがいいと思います。いや、もちろん実際には過去をさかのぼればさかのぼるほど異世界にはなるわけですが、しかしそれは本来、探求したくなるような「ロマンチック」なものではないはずなんですよ、絶対に(笑)。
自分が『中国化する日本――日中「文明の衝突」一千年史』(文藝春秋、2011年)で書いた例だと、ドラマやゲームで大人気の戦国武将たちの合戦なんて、実態は飢餓状態での食糧の奪い合い。とても美的に耽溺できるような代物ではないです。魅力的な異世界を求めるなら、最初から完全なフィクションに求めたほうが、絶対満足できる。
むしろ必要なのは、「過去にさかのぼればすごい魅力的な異世界を見つけられる」というロマンチシズムでもなく、かといって「人間は大昔からどんどん進歩してきたし、これからも進歩し続ける」というオプチミズムでもなく、「あぁ、人間っていつの時代もダメな存在で、どの時代を探したってユートピアなんか見つからないんだなぁ」という、適度なあきらめ感だと思いますね。理想社会なんてどこにもなくて、どこの国のいつの時代を調べてみたって、現実は理想像からズレてしまってる。
むしろ注目するべきは、その「ズレ方」なんですね。「あるべき世界」からどういう方向にズレてしまうのか、そこにそれぞれの時代や地域の「クセ」が見えてくると思う。たとえば「ニッポンのジレンマ」の席上でも強調したのは、日本の場合は中世から今日に至るまでつねに、「江戸時代的」な方向にズレがち=「江戸時代化」(※)しがちだということです。
そして大切なのは、そのような「ズレ」が生じる要因を、特定の「悪いやつ」とか「邪悪な意思」とかに還元しないこと。ある社会が帯びているズレ方の「クセ」は、誰かが意図して作ったというよりも、歴史の流れの中で無意識のうちに醸成されてきたものだから、たとえば「コイツらが日本をダメにした!」的な形では克服できない。それこそタイムマシンで過去に戻って「コイツら」を排除してきたとしても、その時は別の人物なり勢力なりが「コイツら」の位置に座ってしまうだけで、結果は変わらない。それくらいに思っているのがいいと思います。
第2回 2つの「正しさ」を使い分ける に続く