サイトの更新中断のお知らせ

次世代の論客を応援するサイト「ジレンマ+」は、 この度、NHK出版Webサイトのリニューアルに伴い、 ひとまず、情報の更新を中断することになりました。 長いあいだご愛顧いただき、ありがとうございました。

2015.04.24
2014.02.14

生きざまは全部デモ ネット世代の選挙のゆくえ・後編 西田亮介×三宅洋平

2013年夏、ネット選挙が解禁されました。政治的有効性感覚が乏しいとされる日本の若年層が政治に関心を持つには? 今回の対談では、アーティストとアカデミズムの出会いが、互いにとって幸福な結果を生みました。「選挙フェス」で一躍注目されたミュージシャン・三宅洋平氏は、自らのエモーショナルな政治観を論理的に説明してくれる存在を必要とし、ネット選挙を研究してきた情報社会学者・西田亮介氏もまた、若年層を政治に引き込むプラグマティストを研究対象としています。ネット世代の2人が考える、人を政治に巻き込む方法とは?

三宅 洋平 (ミヤケ・ヨウヘイ)

1978年生まれ。リクルート社員を経てミュージシャン、社会活動家に。2013年7月の参院選では、緑の党の推薦を受け比例区候補として出馬した。渋谷駅前で行ったライブ風の選挙活動「選挙フェス」がSNSを通じて話題を呼び、17万票を得たにもかかわらず落選。NHKクローズアップ現代「検証 ネット選挙」で特集された。

西田 亮介 (ニシダ・リョウスケ)

1983年生まれ。立命館大学特別招聘准教授。専門は情報社会論と公共政策。著書に『ネット選挙とデジタル・デモクラシー』(NHK出版)、『ネット選挙 解禁がもたらす日本社会の変容』(東洋経済新報社)、共著書に『統治を創造する 新しい公共/オープンガバメント/リーク社会』(春秋社)、『無業社会~働くことができない若者たちの未来~』(朝日新聞出版)などがある。

「応援」はされたくない

西田 前編では、三宅さんの選挙フェスにおける、強い主張を表に出していかないスタイルとコミュニケーションの形式を、肯定的に見てきました。今度は、ひとまず2点のリスクについてお伺いしてみたいと思います。
 一つは、ある論文で僕は三宅さんのことを「ハーメルンの笛吹き」に例えたのですが、三宅さんが肯定形による強い政策的な主張をしないことによって、三宅さんの言うことならば何でも聞いて動く有権者が生まれ得る危険性があるのではないかという危惧です。
 もう一つは、三宅さんのようなスタイルは、強い政策的主張が前面に出てこないがゆえに表面的な戦術だけが模倣されやすい可能性があるという点です。たとえば広告代理店等によって、おそらくは三宅さんとはかなり異なった政策的主張を持つはずの現在の与党の政治コミュニケーションの中に取り込まれうるのではないかという点です。

三宅 子どものころ、悪いことをしたり夕方遅くまで家に帰らないと、ベルギーでは「笛吹き男にさらわれるよ」って言うので、「ハーメルンの笛吹き」はすごいなじみのある言葉です。なぞらえてもらえて非常に嬉しいです(笑)。
 それについては、僕も危惧しています。ロックなどあらゆる音楽のムーブメントを見ていても、本人が持つ輝きと、ムーブメントとして見た時は違っています。ニルヴァーナがいい例です。「カート・コバーンはかっこいい。ニルヴァーナも大好き。でも、カート・コバーンの格好をしてるやつは嫌い」みたいな妙な興ざめ感があります。

西田 ああ、なるほど(笑)。

三宅 そういう現象は僕も生み出したくない。だから選挙中、僕はそれをはじき返し続けたんです。
 例えば、「応援してます」と言われたら、オウム返しに「応援してます」と言っていました。「人にがんばれって言う余裕がある人も、がんばるべき」っていうのが僕の哲学なので、「全部あなたの話なんだよ」っていう意識を持たせるために。選挙期間中に支持者にそんなことを言うなんて、これまでは多分あり得ないですよね。
 ひねくれたスタンスですが、禅の臨済宗に近いかもしれません。問答をひたすら返していく。「師匠、答えは?」と言うと質問が返ってくる、みたいな。意外とそういうのが今の日本には大事なのかなと思っていて。というのが一つ目への回答です。
 二つ目は、もしかすると僕の政策に主張が薄いと感じる理由は、西田くんと僕の感性の違いのせいかもしれない。実はかなりメッセージを盛り込んでいるんですが、これから順を追ってロジックに落としていく必要があるし、逆に言うと、政治的な言葉で解釈し、世の中に対して説明してくれる理解者を求めています。

西田 すみません、政治的主張が薄いという言い方は、ややミスリーディングな表現でした。コミュニケーションの形式の面で、否定・肯定の言い切りの表現が少なかったということです。

三宅 そうだね。断定はしない。

西田 「家に帰って考えてみよう」とか、「誰かと話してみよう」とか、YouTubeの動画をほぼ全て見させていただいたのですが、ほぼ全て問いかけですよね。

三宅 すべてはケースバイケースだと思って。例えば、「原発だ!」と同じように「これからは太陽光発電しかない」と言ったら、その思考性には問題があると思うのです。
 過剰なエネルギー負荷を地球に与えながら今の快適な暮らしを保とうとしていたことを、僕らは反省しなきゃいけないはずなので、すべての根源は、自分たちの虫のいい考え方だよということを言いたかったのです。答えは、ケースバイケースなのです。
 何でもみんなに聞いたほうが多様な答えが得られることに、特にツイッターをやりながら気づきました。1万人ぐらいの秘書に囲まれている気分です。

西田 まさにネット的な自律・分散、協調ですね。


理性と感情の役割分担

西田 今日お話を伺う以前から、三宅さんはおそらく理性的な方だろうと予想していました。コミュニケーションの形式も先ほど申し上げたとおり、確信犯なのではないかと思っていました。過去の運動家とは異なり、議席を取ってイニシアチブを取らないと政治は変わらないという今日のお話も大変腑に落ちるものでした。
 参院選の選挙期間中に、僕は毎日新聞社と共同研究を行っていて、たとえば候補者すべてのツイートを収集しコミュニケーションを分析して、彼らがどのようにソーシャルメディアを使っていたかといったテーマを調べていました
 その共同研究でわかったことの一つが、多様な解釈が可能な主題はソーシャルメディア上で広く拡散していくということでした。噂と同じで、あいまいでよくわからないことほど、人は他人に伝えたくなるという知見が得られました。
 三宅さんが強い言い切りでも否定でもなく、問いかけの形式をとっておられるのは、そういったSNSの特性を理解したうえでの戦略としてだったのかな、と思ったわけです。

三宅 間違いないですね。今おっしゃったことを一言で言うと、人々をどう巻き込むか、ですよね。僕の主眼は、いかに一回みんなを政治の世界に巻き込むか。で、かかわってみるとどれだけ燃えるものか。それを、少しでも多くの人に感じてもらいたかったんです。
 僕が理性的かどうかについては、いま振り返ればそうあれたのかな。基本的には、僕は非常に直情的な人間でして、感覚で生きてきて苦労したタイプなので、逆に言葉や哲学や理性の大切さを身をもって学んできたというか。それが発揮された結果、西田くんから理性的に見てもらえているのかな、とは思います。
 今の政治に足りないのは、理性ではなく心のほうだと思います。「あ、なんかこの人好き」と思わせる人、あんまりいないですよね。

西田 そこに違和があって、もうちょっとお伺いしたいと思います。
 僕は、日本の政治に足りないのは、一言でいえば理性だと考えています。デモにせよ、反対運動にせよ、直情的な反対運動みたいなものにせよ、リベラルというのは、西欧近代の理論としては主知主義的な存在として整理されていました。もう少し柔らかくいうと理性主義的ということですが、どうも日本のリベラルにはどうもそういうところを欠いているように見えなくもない。かといって、保守主義も情念のようなものを駆動原理にしているように観察可能です。むろん政治というのは情念を背景にする側面はあるわけですが、しかしそれでもこういった状況を念頭におくと、日本の政治にはあまりに論理や理性を欠くようにも見えます。
 例えば90年代に、選挙フェスの前段階のようなものとして「新しい社会運動」という言い方で、サウンドデモや、政治を楽しくしようという動きがありました。しかし、これは振り返ってみて、立法への影響という観点では、ごく一部のケースを除くとその多くがやはり影響を持ち得なかったともいえます。

三宅 つとめて心を持ちこまないようにするものですから。

西田 そうすると、やはり必要なのはロジックと的確な戦略と戦術ではないかという気がしなくもない。今日お話ししていても、三宅さんのスタンスは理性的なプラグマティストに見える。でも、三宅さんが政治に今必要とお考えになるのは……。

三宅 エモーショナルな部分ですね。

西田 …と言われると、個人的にはちょっとガクッとくるところがあります。従来の運動と同じ轍を踏もうとしているようにも見えてしまう。その点はどのようにお考えになりますか?

三宅 だとすれば、日本の政治には両方足りていないのでしょう。両方のクオリティを上げていかなくてはいけない。
 今西田くんが言った意味での理性は、確かに僕も必要だと思います。例えばディベートする力のなさとか。自分の主張はできるけれど、人の話が聞けない政治家が多いですよね。
 民主主義の原点は、何を言うかではなく、話し合い方なのです。そういう意味では、本来意見というのは多様であるべきなので、意見を1つにまとめること=民主主義、というわけではない。「みんなで解決しよう」という時に、多様でバラバラなものを一つにする方法が大事です。
 そうなると、多数決の論理ではなく、究極的には満場一致になるまで話し合って満場一致というかたちを取るのが一番理想的な採決だと僕は思っています。民主主義の原点をとらえると、満場一致にできない時点で力量不足、ということになるんです。
 そういった意味での論理性や理性っていうのは、日本語においても英語においても、今、日本の政治には欠けているので、同意します。
 僕の主張がある種ファナティックなものにつながってしまうのではないかという危惧は、僕自身抱いています。だからこそロジックが必要になってくるので、その点は鋭意勉強中です。

西田 その上で、リスクのもう1点。三宅さんのスタイルは模倣される可能性についてはいかがでしょうか。
 僕の本でも触れたのですが、大きい政党には必ず広告代理店やPR会社がついています。コミュニケーションのプロである彼らが、似た条件の候補者を探してきて、三宅さんの「みんなで考えよう」というスタイルを、より洗練しながら徹底して模倣していくことによって、三宅さん的なものが中和されていく可能性はありえませんか。中和というか、換骨奪胎されていくということでしょうか。多額の予算が投じられるアメリカの大統領選挙などでは、ネガティブ・キャンペーンの一環として相手の戦術の模倣はしばしば行われています。

三宅 民衆のものを権力が取り入れることで、面白さが消されてしまう、みたいなことはどの時代でも常にありますね。
 形骸的になぞっても、できないんじゃないかな。ビートルズに対するモンキーズみたいになっちゃうというか。ビートルズを模倣したバンドは、あの後いっぱいいたんです。でも、結局誰も記憶に残ってないでしょ? ビートルズしか残ってないんですよね。という意味では、あまり心配していないです。むしろ、真似してみてほしい。見てみたい。
 僕がやったことは、あくまでももう終わったことで、いわば「1枚目のアルバム」です。2枚目は全く違うことやってやろうと思っていたりもします。

まとめ

三宅 今後も、アカデミックな方との機会は逃さずつかみたいです。以前津田大介さんと話した時にも思ったのですが、自分のエモーショナルなことをロジックに落としこんでくれる人は、僕にとって非常にありがたい存在です。
 そういう友達が各界にでき、いわば異業種交流を通じて、新しい日本を作るための準備になれば。

西田 次の国政選挙は、2016年ですね。衆参のダブル選挙になるともいわれています。2015年には前哨戦としての統一地方選挙も控えています。有権者は今度の投票の機会まで、昨今の政治的な動向を覚えておいて、投票に反映する必要があるでしょうね。

三宅 そうだね。投票も含めて、デモンストレーションですよね。だから、いわゆるデモに参加するのか、自分の気持ちを投票で表すのか……生きてることそのものがすべてデモンストレーションだし、国民と呼ばれている時点で「俺の生きざまは全部デモだ!」っていうぐらいの自負でいいんじゃないかなと思います。
 ドイツでは、行政訴訟が年間50万件もあるのですが、日本では年間1,800件しかないっていうところに、アイデンティティの置きどころの差が表れています。「俺は絶対に、俺の思うように生きたい!」って思っている人が、ヨーロッパは多いんだと思うんですよ。バックパック背負って外国旅すると、面倒くさい。日本に帰ってくるとホッとしますからね。だけど、だからこそ、きっとヨーロッパで民主主義が、議会政治が生まれたんです。
 そして、それが日本に入ってきた。「あうんの呼吸」が大事で、議会なんていらないくらいの日本に、「それでもやっぱり、議会が必要だ!」となったのは、ヨーロッパの影響なんです。向こうは基本的にアイデンティティの主張し合いですから。イスラム教徒、ヒンドゥー教徒もいる、キリスト教徒だけでもすごい数の宗派がある。
 今、僕らが向き合わされているのは、その果てに生まれた民主主義の手法をどう取り入れていくのかということですよね。……こんなまとめで、いかがでしょうか。

西田 また選挙の話や政治の話などいろいろ教えてください。今日はどうもありがとうございました。

三宅 お互いさまです。ありがとうございました!

【了】

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