「ニッポンの大転換2015」番組収録後インタビュー:猪子寿之
2015年1月1日(木)23:00~01:30[1月2日(金)深夜]放送予定のニッポンのジレンマ「ニッポンの大転換2015」収録後、猪子寿之さんにインタビューを行いました。
猪子 寿之 (イノコ・トシユキ)
1977年生まれ。ウルトラテクノロジスト集団チームラボ代表。大学卒業と同時にチームラボを創業。チームラボは、プログラマ・エンジニア、数学者、建築家、グラフィックデザイナー、CGアニメーター、編集者など、情報社会の様々なものづくりのスペシャリストから構成されているウルトラテクノロジスト集団。
――今回の番組で“最も伝えたかったこと”は何でしょうか。
猪子 伝えたかったけど伝えられなかったことでもいいですか(笑)。子育ての話題が出たときに、「イクメンのように夫に育児の分担を求めることが解決ではない」ということを言ったのですが、それはなんでかというと、現実問題として、子どもが育ち終わるまで夫婦が一緒に暮らして、仲の良い状態でいるということ自体が、全体を考えるとマイノリティなのではないかと思っているからです。
世の中には未婚の人もいれば、離婚している人、籍は抜いていなくても事実上別居状態の人、シングルマザーの方だっています。つまり、男性が育児への参加することだけが、根本的な問題解決につながるわけではないということが言いたかったのです。そこにだけフォーカスをあてると、人口減少を食い止め出生率を高めることもできない。実際、結婚している夫婦の出生率はそこまで下がっていません。結婚しなくなったという事実が、出生率を下げているのです。日本では婚外子が2%であるにも関わらず、ヨーロッパの多くの国では実に半数近い数の子供が婚外子です。
「企業はイクメンに理解を」みたいな議論に、大きな意味があると思えない。もちろん、「男性が育児すべきではない」というわけではありません。問題のレイヤーが違うということです。
女性が働きやすい社会を作るには
猪子 番組でも社会学者の本田由紀さんがコメントしていましたが、「教育-企業-家族」の3つがそれぞれを相互補完的に前提とすることで成立していたトライアングルの構造が戦後長らく続いていました。それが機能しなくなっているので、その構造を前提とした制度や議論を止めた方が良いのです。たとえば、現在は「子ども」を、「家族」を前提とした個人におしつけているわけです。
たとえば、死ぬほど働きたい人でも子どもを産めるという制度、周囲から褒められる「理想のママ」にならずに子どもを産める環境になってもいいと思うんです。国が結婚に対する法的なサポートをいっさい止めて、夫婦であろうと、夫婦という形がなかろうと、どんな形であれ、子どもを中心に法的なサポートをすればいいだけです。シングルマザーで、両親と暮らしていない人にとって、働きながら子どもを育てることは非常に大変なんです。近隣の台湾やシンガポールを見ても、働きながら子どもを持てる環境がより進んでいるような気がします。
長い歴史を見ても、子どもはもっと「集団」によっていい加減に育てられてきたと思うのです。そのような社会環境にしていくことで女性の「生きづらさ」という問題も解決するのではないかと思うのです。
「正規/非正規」という雇用のあり方を考え直す
猪子 国は人々の生活の保障を企業前提にしているように思えます。現在、「正社員で終身雇用」という働き方が成立しなくなったと言われていますが、ひとまず国は雇用制度に関わることを一切辞めるというのも1つの手だと思います。
正規雇用をなくしたところで、実際には企業は社員をそんなに入れ替えたりはしないと思うんですよね。「いい人にはずっと我が社にいてほしい」と考えるはずだから。長期雇用をしなくなるわけではない。アメリカだって、上場している大企業の社長の多くは、新入社員から上り詰めている人が多いのです。解雇しやすい状況だからといって、長期雇用が減るわけではないと思うのです。法によって縛ることが失業率を下げることには思えない。むしろ、法による高すぎる雇用リスクが自動化や空洞化を加速させているのではないでしょうか。
制約が多いことで、「それなら非正規雇用にしよう」と判断をせざるを得ない状況になっている。「正規/非正規」と分けるから、法制度がどんどん複雑になっていく。まずは、「企業は社員を長期的に雇用して守らなくてはいけない」という法的な制約をいっさいとっぱらう、そして、国は突然失業した人でも再チャレンジできる準備期間なり保障なりを設けるようにした方が良いと思うのです。再教育を受けるコストを下げるとかね。
――他の人たちの発言・話題で気になったものはありましたか?
猪子 国際政治学者の三浦さんが「コモディティ」(一般に市場に流通する商品が個性を失い、消費者にとってはどこの商品を購入しても違いがない状態のこと)という言葉を使っていました。
僕には持論があります。それは、これからの社会は「グローバル・ハイクオリティ/ノーコミュニティ層と、ローカル・ロークオリティ/コミュニティ層に分断される」というものです。どういうことかというと、インターネットなどのインフラ整備によって、社会は驚異的なスピードで、ネットワーク化・グローバル化を果たしました。以前は、国ごとに情報が分断されていたので、人々はモノやコンテンツの多くを、その国の最もハイ・クオリティのものの中から選んでいたわけです。飲み物にしても、コンテンツにしても、サービスにしても同じことです。
しかし今は、国内産か国外産は関係なく、世界で最もクオリティの高いものが選ばれる時代になったわけです。たとえば動画共有ソフトでいちばんyoutubeがよければ、みんなyoutubeを使いますし、SNSとしてFACEBOOKの使い勝手がいちばんであれば、FACEBOOKを使うわけです。マーケットはローカル(国内)に限定されるよりも、グローバルに拡大されたほうが、資本の厚みも違ってくる。クオリティに対してもっとコストがかけることが可能になるのです。もっとお金がかけられるようになるわけです。
ローカルでは、コミュニティとセットになって「価値」が上がる
猪子 次に「ローカル・ロークオリティ/コミュニティ」です。ネットワーク社会は、今まで以上に人が所属するコミュニティを拡大し、さらに複数のコミュニティに所属することを可能にしました。20~30年前は、連絡を取れる知人の数は限られていました。たとえば同窓生名簿を見て電話をかけるとかそんなものです。しかし、現在は、ネットやSNSが人と人とのミクロなつながりを可視化した。かつて10人やそこらの知人・友人が1000人に増え、さらに友達の友達といえば、1000人×1000人ということになるわけです。
コミュニティが拡大したことで、自分のコミュニティ内からコンテンツやモノ、サービスなりを選ぶことが可能になりました。ネットワーク社会化される前は、コミュニティが小さく、その何かで選び取ることは現実的には難しかったのです。みかんを作っている農家の人が知人にいるから、みかんをもらえるとか、そんなものだった。
今は、コンテンツやモノ、サービスは「コミュニティとセットになって価値が上がる」という事態が起きている。商品そのもののクオリティではなく、誰が作っているかであったり、あとは、コミュニティ内でのコミュニケーションのためであったり、そのようなことが「価値」を作っているのです。クオリティが高いにもかかわらず、お金のやりとりが発生しない場合もある。また場合によっては、世間一般における値付けよりもはるかに高価になるケースもあるわけです。たとえばコミケとかそうですよね。20ページで1000円の本が売られていたりするわけです。
さらに「ローカル・コミュニティ」で行われている価値の交換には、数字に出てこないという側面を持つことが多い。知人で、ゲストハウスを始めた人がいるのですが、稼働率が10パーセントくらいだったりするそうです。でも、周囲の住人たちが、「都会からお客さんが来るんでしょう」と言って、大根を持ってきたりする。泊まってくれるお客さんもお酒を差し入れしてくれるとか。もちろん大金を稼いでいるというわけではないでしょうが、コミュニティモデルでも楽しく生きていけるし、いわゆる経済合理性に依拠しない生き方をチョイスする人が増えているという実態があると思います。
非経済的な活動から大きな経済圏が生まれる
猪子 アメリカに目を向けましょう。個人が持っているクルマを利用してタクシーのようにユーザーを目的地に届けてくれる「Uber(ウーバー)」というサービスがあります。仕組みは簡単で、自分のいる位置からアプリを起動すれば、近くにいるドライバーが目的地まで運んでくれるというものです。ウーバーでドライバーをしている人は、運転だったり、人と出会うことが目的で、いわば「趣味の延長」として参加をしている人もいるわけです。そしてそのような人がより人気になりやすいです。
職業だけでも趣味だけでもない活動。そうしたものを人生の軸の一つに置く人が増えています。そんな「ローカル・ロークオリティ/コミュニティ層」の活動は数字が上がってこないし、法制度的にも認められていないものも多い。だけれどもその非経済的な活動を応援するプラットフォームは作り上げることができれば、大きな経済圏を生む可能性がある。Wikipediaの編集をしている人はボランティアですよね。しかし、その集積が大きな社会的影響を持つものとなっている。
――視聴者へのメッセージをお願いします。
猪子 今、多くの人は「ローカル・ハイクオリティ」層として生きています。しかしローカル・ハイクオリティとコミュニティは実は相性が悪いんです。ハイクオリティがゆえに。ローカル・ハイクオリティの延長線上にはコミュニティ型はないのです。
気合を入れて(笑)、グローバルでハイクオリティなモデルに飛び込むか、新たなコミュニティのモデルを模索するか。少なくとも自分が所属する、「ローカル・ハイクオリティ」とはいったいどんなものなのか、見つめ直すことは決して損ではないでしょう。