「“言葉はどこまで届いているか?” ~ジレンマフェス2014~」番組収録後インタビュー:先崎彰容
2014年3月30日(日)0:00~01:20[29日(土)深夜]放送予定のニッポンのジレンマ「“言葉はどこまで届いているか?” ~ジレンマフェス2014~」収録後、先崎彰容さんにインタビューを行いました。
先崎 彰容 (センザキ・アキナカ)
――番組出演にあたって、いちばん伝えたかったことは何ですか。
先崎 今回のジレンマは「言葉」の問題。この抽象的なテーマを一年間の総集編をふまえて語るという、なかなか難しいお題でした。では、それにどう対応したか(したつもりか)――ここで改めて先崎の考えをまとめておきましょう。
この一年で論じられた「大学とは何か」あるいは「資本主義とは何か」。こういった問いに共通するのは、「戦後日本の価値観は正しかったのか」という反省です。1945年以降、私たち日本人はある価値観を無条件の前提に生きてきた。でもそれが今、「無条件」ではなくなってきているんです。
番組では、それを「速度」というキーワードで表現した。戦後の日本は、全ての事柄を効率よく、合理的に、つまり「早く、早く」することを良しとしてきた。効率化と合理化は、本当は=当初は日本人の生活を豊かにするためだったはずだ。だが今や、資本主義の歯車に翻弄され、疲弊し、現代社会から「降りる」人が増えているでしょう? つまり、「速度」はそのままではもはや肯定できないんだ。
では、「戦後日本の価値」と「言葉」がどうかかわるか。ツイッターと本を比べてみると分かる。僕は研究者なので、原則的に「言葉」とは、本という「文字を書く」ことを意味する。それは、現在の社会からすれば、極めて「遅い」。でも、その「遅さ」にこそ意味があると思っています。
今の社会はあまりに過剰な速度で流れています。ソーシャルメディア上には、常に最新の「早い」情報が飛び交っている。しかし、本当にそれだけでいいのだろうか? 社会が過剰な「速度」で流れているからこそ、時間をつくって一冊の本を読む。それはあまりに「遅い」行為で、すぐに社会を変えることはないかもしれない。でも「考える」ことを止めたとたん、私たちは思いつきの「言葉」や、キャッチフレーズに飛びつく危険性がある。
また本来、「言葉」とは、自分の心を直接表現できるものではない異物である。しかも全く世界観を異にしている「他者」と手探りする道具でもある――こういった「言葉」のもつジレンマ、ままならなさにもっと思いを致すべきではないか。多くの思想家の「言葉」は、こういう問題を教えてくれます。読書が大切な所以です。
――きょうの番組収録のなかで、気になった話題や発言はありましたか。
先崎 津田さんとは、共鳴できる部分が多々ありました。これだけメディアの世界で活躍され、ツイッターの第一人者とも言われる彼が、とことん冷静に時代を見つめている。とくに印象的だったのが、「世の中にある問題は、そう簡単には解決できないほど複雑なんだ」と仰っていたことです。また、そのことを視聴者にわかってもらうだけでもこの番組の意義がある、とも言っていた。自己の感情をダダ漏れにする「早い言葉」ばかりに慣れてくると、ワンフレーズ=デマの波にさらわれる傾向がある。でも津田さんは本当に冷静です。普段の仕事は僕と真逆にあるような方だと思いますが、そこから導かれる結論が同じというのは、きわめて重要なことなのです。
先にも述べましたが、私たちは、心の中で感じていることをそっくりそのまま言葉にできないことがある。他人に伝えることはなおさら難しい。つまり「言葉」には、馴染む=時間という概念が必要になってくる。時間をかけて「言葉」を練りに練ることで、はじめて目の前の人に思いを届けることができたり、100年後の人に考えを伝えることができたりする。瞬間的につながることだけが、「言葉」の力ではないんだ。自分の身の回りから考えたことを、どれだけ時間をかけて「言葉」にできるか。
――今回は過去の放送を振り返る総集編でしたが、先崎さんが参加してみたかった議論はありますか?
先崎 これはハッキリしています。芸術論の回(2013年10月放送)ですね。芸術をめぐる彼らの主張や生き方を、もう一歩、思想的に深めてみると次のようになると思う。
説明しましょう。小説家の平野啓一郎さんは、「分人」という概念を主張していた。それは、自分のなかに複数の人格を持って生きていくことを肯定するもので。一方、高木正勝さんは、自分の作品は、「自分」で創るのではなく、天からの何かに促されるような体験だと言った。この2人の態度は、きわめてロマン主義的な感じがします。
では、ロマン主義とは何か?
ロマン主義の最大の特徴は、ドイツの詩人文学者にみられます。彼らは分裂した自己を抱えて生きている自らを「近代人」であると否定的に考えました。資本主義社会への違和感、大声で人びとを支配する政治的言説への嫌悪感、そこで生きていく事の苦悩を彼等は感じていたんだ。おそらく平野さんは、こうした気分を理解した上で、この状況を肯定する方法を模索しているのです。
19世紀ロマン主義は、ある解決方法を見いだしました。それは芸術という世界をつくり、そこに中世の美的な世界=神と人との融合した理想状態を夢見るものです。「言葉」を政治から、唾棄すべき現実から奪還する作業、それがロマン主義者を芸術に駆り立てていきました。
こうした神々と人との融合のイメージ、これは高木さんが芸術とはついに、天からの声を聞くような体験である、と言ったのに近いと思うのです。彼が都会を離れて暮らしはじめた気持ちも、自分なりに理解しているつもりです。
――その「ロマン主義」が、なぜ面白いのでしょうか?
先崎 しばしば耳にする「ポストモダン」と呼ばれる時代区分=現代社会理解が、ある意味、ロマン主義と極めてよく似ているからです。ただし、ポストモダンにおいては「天の声」という表現はありません。もっとニヒリスティックに「分裂したまま生きていくしかない。分裂を肯定しよう」と言ってのけます。とはいえ、途中まではロマン主義にきわめて近い問題意識を持っているのです。
もう少し踏み込んで説明すると、次のようになる。
もともと「近代」が始まったばかりのとき、そのアンチとして出てきたのがロマン主義でした。そのロマン主義を批判したのが哲学者のヘーゲルです。そして、ポストモダニストの常套手段はヘーゲル批判なのです。つまり、ヘーゲルの「前後」という立場で、ロマン主義とポストモダニズムは近い関係にあるのです。
さて、以上のお勉強をふまえて最後に私の立場を言っておきたいと思います。
残念ながら、多くの日本人は、嫌悪しつつも「資本主義」のなかで、「分裂」しつつ生きていかねばならない。つまり戦後の日本=近代日本を、全否定して生きていくことは難しいのです。最も大きな枠組みで言えば、私たちは「近代」の諸問題を引き受けつつ、そこに感じる違和を「言葉」にしてゆくしかない。引きずられながら、でもなんとか抵抗する糸口を見つける――ここにしか、打開策はないと思います。「性急な思想」(石川啄木)は禁物だ。
芸術をテーマにした回でしたが、僕にとっては、近代とはなにか、国家とはなにかを考えるのに良い機会になると思いましたね。