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2015.04.24
2013.10.23

「いま芸術は…?クリエイター原論2013」番組収録後インタビュー:平野啓一郎

2013年10月27日(日)0:30~1:30〔土曜深夜〕放送予定のニッポンのジレンマ「いま芸術は…?クリエイター原論2013」収録後、平野啓一郎さんにインタビューを行いました。

平野 啓一郎 (ヒラノ・ケイイチロウ)

1975年、愛知県生まれ。小説家。京都大学法学部に在学中に執筆した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。以後、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。主な作品に『葬送』、『滴り落ちる時計たちの波紋』、『決壊』、『ドーン』、『かたちだけの愛』、『空白を満たしなさい』など。そのほかの著書に、エッセイ集『モノローグ』、対談集『ディアローグ』、新書『私とは何か――「個人」から「分人」へ』など。

――今回の番組で“もっとも伝えたかったこと”は何でしょうか。

平野  芸術作品の競争相手は、むしろ芸術の外側にあるということです。今までは過去の作品を乗り越えようとして、新しい作品が生み出されてきました。しかし、これだけ多くの娯楽が存在し、テクノロジーが人々を魅了するなかで、そもそも「なぜ、あえて芸術なのか」ということが問われている。作品のあり方にしても、今は問題提起をするだけでは不十分で、多くの人が「じゃあ、どうしたらいいのか」という答えまでを欲しているように感じます。賛否はともかく、芸術にも「その先のデザイン」が求められていると思いますね。

――今回の番組で“興味を持った発言”や“印象に残った発言や話題”はありましたか。

平野  高木正勝さんが「アーティストは道をつくって、先の景色を見せることしかできない」とおっしゃっていたのが印象的です。しかし、年々と「その先の景色をどうつくるのか」という問題意識が募ってきて、それが山で暮らすという決断につながったとのこと。高木さんの問題意識には強く共感しました。

 同じような理由で、スプツニ子!さんの「私は“今”派なんです」という発言も印象に残っていますね。芸術の起源を問うて創作を見つめなおすというのは、私も嫌いではありません。でも、これだけ時代状況が絶えず激変しているなかで、過去を参照することだけで前進するとは思えない。私も“今”を描こうとする作家なので、彼女にも共感しました。

――インターネットのおかげで、発表した作品への評価が見えやすくなっています。そうした受け手の反応が、芸術における表現方法や作品に与える影響はあるのでしょうか。

平野  総じて言えるのは、誰か一人の発言が強烈に影響を及ぼすことはないということです。私の場合、一人が猛烈に批判している箇所があっても、大多数の人が何とも思わないなら、ほとんど気になりません。面白いと思う人がいれば、面白くないと思う人もいる。それが小説ですから。もちろん、その批判者の言葉に特別な力があれば別ですが。

 ただ、作者と読者が接近していることは間違いありません。19世紀ヨーロッパで小説が勃興してきた時期には、作者が行きつけのサロンで新作を朗読するなど、読者と直接対面する機会が多かったはずです。それがメディアの発展とともに、読者と作者が遠ざかっていったのだと思いますが、インターネットというテクノロジーが両者をふたたび近づけている。

 インターネットが出てくる前は一般読者の感想が表に出てこなかったので、小説の世界では文芸批評家の言葉が非常に重視されました。でも、シャープな批評眼を持つ読者が表れてきてから状況は変わってきています。また、本の感想を共有する方法にしても、現在のアマゾンレビューのような形式だけではなく、ニコニコ動画のブックバージョンのような技術が広まる可能性は高い。そういう場で、ページ毎に読者の気づきが共有されるようになるんじゃないでしょうか。

――ジレンマ世代とそれ以前の世代で、芸術活動におけるもっとも顕著な差はどこに表れていると思いますか。

平野  一概に世代ではくくれませんが、日常的にインターネットに触れているかどうかで作品に大きな差が出ていると思います。じつは、いまだに携帯電話もインターネットもない設定で作品を書く方はたくさんいます。もはやほとんど非現実的ですが、その設定だと、文学の世界にはかなりの技術的蓄積がありますから、ある程度まとまった話が書けてしまう。たしかに、現在の複雑な社会状況を取り入れて作品を書くことは難しいですが、それにトライしなければ文学に未来はないと思っています。

 たとえば、インターネットという技術はもはや日常になっていますよね。何かわからないことがあればグーグルで検索する。それが当たり前です。なのに、何が起こっているのかもわからないような場面に遭遇した主人公が、その場で検索すらしないという設定では、とうてい“今”を描いているとは言えません。「検索」という手段のない世界は、不条理な物語として成立しやすいですが、それは20世紀の小説です。

 フランツ・カフカや安部公房らが描いたのが「何が起きているかわからない」という不条理ならば、現代の不条理は、むしろ検索結果、玉石混淆の情報の真偽がわからないことです。文学が伝統芸能でないとするなら、小説はこうした問題に向きあって書かなければならないと私は思います。