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2015.04.24
2013.06.25

いつも心に〈悪魔の代弁人〉を――憲法と政治のジレンマ【第2回(全4回)】:木村草太×浅羽祐樹

「憲法」をめぐる問題を自分たちの問題として論じた『憲法の創造力』 の著者・木村草太氏と、『したたかな韓国』 で成熟した政治センスを身につけようと提案した浅羽祐樹氏。法学、政治学、それぞれの立場から現下の日本が抱える課題について論じていただきました。4回にわたってお届けします。

木村 草太 (キムラ・ソウタ)

1980年生まれ。憲法学者。東京大学法学部卒業。同助手を経て、現在、首都大学東京准教授。助手論文を基に『平等なき平等条項論』(東京大学出版会)を上梓。法科大学院での講義をまとめた『憲法の急所』(羽鳥書店)は「東大生協で最も売れている本」と話題に。著書に『憲法の創造力』(NHK出版新書)など。

浅羽 祐樹 (アサバ・ユウキ)

1976年生まれ。新潟県立大学政策研究センター准教授。専門は比較政治学、韓国政治、国際関係論、日韓関係。著書に『したたかな韓国~朴槿恵時代の戦略を探る』(NHK出版新書)、木村幹・佐藤大介両氏との共著に『徹底検証 韓国論の通説・俗説』(中公新書ラクレ)。

「9条を守らないと戦争が起きる」、「96条先行改正で改憲できるような憲法に」――。とかく抽象的な議論に陥りやすい憲法談義。第2回は、具体的な事例と判例から独りよがりにならず、相手の立場に立つことで、日本社会の知的アドバンテージを生かしながら、交渉を有利に進め多様な社会を守る方法を探ります。

■空中戦で終わりがちな憲法論議

浅羽  対談に際して、木村さんの本をあらためて再読しました。もう五回か六回読んでいるのですが、そのたびにいろいろなフックが仕掛けられていることに気がつきます。前回読んだときには、このフックには気がつかなかったな、と悔しい思いをしながら毎回読んでいます。「はしがき」で、奥平康弘『憲法の想像力』(日本評論社、2003年)を受けて、今回の『憲法の創造力』を書いたとあります。

 お読みになった方は、気がつかれていると思いますが、それぞれの章の「まとめ」に、「創造力」と「想像力」という両方の言葉が必ず使われています。誤った「想像力」はおかしなルールを「創造」してしまうとか、「想像力」を働かせ「創造力」を発揮するとか、ネガティブにもポジティブにも提起されていますが、本全体に通底するのは、『憲法の想像力』へのオマージュです。非常につくりこまれた本だというのを、同じNHK出版新書の書き手として足をバタバタさせながら拝読しました。

木村  それは編集者の思惑どおりです! そのままだと、タイトルの意味がよく分からないのでコンセプトがしっかり伝わるように担当の編集者から言われて、そのとおりにしました。憲法の議論は、右でも左でも「空中戦」になりやすい。例えば右のほうから「普通の国」になるべきだと言われると、なるほど普通じゃない国は嫌だな、と思うのですが、よく考えてみると「普通の国」ってなんだか分からない。左のほうからも「9条を変えると戦争になる」と言われるわけですが、なぜそうなのか、と考えるとやはりよく分からない。

 9条を変えるにしてもいろいろな変え方があるわけです。「あなたの言いたいと思っていることをもう少し具体的に言ってくれますか」、というのが私の基本的な立場です。そのためのコンセプトとして「想像力と創造力」という言葉を使いました。

浅羽  個別の章でもグサリと突き刺さります。例えば、第四章の日本的多神教の話もそうです。私的な話で恐縮ですが、妻が敬虔なクリスチャンなのですが、先日出雲大社に行ったときのことを思い出しました。彼女は鳥居をくぐりません。私が参拝するのであればどうぞご自由に、という態度です。

 ともすると、「私たち」は、キリスト教であれ何であれ、私もあなたを尊重するのであなたも私と同じようにコレをしてほしい、と言いがちです。しかし、そうしたことをうっかり発言すると、わが家ではしばしば冷戦状態に陥ったりします(笑)。この日本的多神教というのはいろいろなところで当たり前のように思われているので、なかなか多様な「私たち」を「想像」することができない。だから、間違ったかたちで「想像」してしまうと、「創造」を誤ってしまいます。

■事件は現場で起きている

木村  私自身も日本的多神教にはシンパシーがあるので、神社に行くと「あ、神様いるな」とか、十字架を見ると「キリストいるな」とわりと思ってしまうほうなのですが、気をつけなければいけないなと思います。第四章の冒頭で紹介している空知太(そらちぶと)神社事件では、裁判資料を見ると、町内会の方が「キリスト教徒の方でも大丈夫ですから神社のお祭りに参加してください」と言っている。町内会の方は、まったく悪気はないとは思うのですが、そこでは非対称な暴力が行われている。そこが問題なわけです。やはり、敬虔なクリスチャンの方は日本的多神教的態度にすごく傷つけられることがあるのは事実だと思います。

浅羽  空知太神社事件の判例については、現地まで行って調べられたんですか。

木村  そのころは現地調査を旨として判例評釈していました。最近は完全にはできていないのですが、原告の陳述書や専門家の意見書等を見ないと、本当は何が争われていたのか分かりにくいので、裁判資料は見に行きます。裁判資料は最高裁までいって事件が終了すると一審の裁判所に保管されます。空知太の場合は、最高裁で原審に差し戻されていたので、札幌高裁まで見に行きました。また、空知太神社事件の場合は、問題になっている公民館と神社の関係について、現地で体験しないことには分からないだろうと思い、札幌から50分くらい電車に乗って、さらに徒歩50分くらいのところにある神社を見に行きました。

浅羽  『憲法の創造力』の「あとがき」にあるように、大学の図書館の書庫にこもって、誰も読まないようなアメリカの洗濯屋さんに関する古い判例を読んでいる部分と、そういう事件があると現場まで駆けつけるという感覚は木村さんの中では同居しているんですか。

木村  「一次資料にあたる」という意味では、実は同じなんです。私が調べた古い時代の判例については、判決文を読まずに教科書などの記述から「昔はこうだったらしい」といった程度の説明をする方が多かったのです。助手論文では、本当にそうなのか?と現地調査の気分で、昔の判例本文や、憲法修正を審議した連邦議会の議事録のマイクロフィルムにあたったりしました。

 他方、現代の判例を検討する場合には、このケースをどう解決すべきかというルールを自分で考えたいわけです。そうすると、やはり具体的に何が起こっているかを想像するのは、二次資料である判例を読んでいるだけでは限界がある。昔、外国人が地方公務員の上級職につけるかが問題となった裁判を調べたことがあります。その際、参考のために、国家公務員はどうなっているか調べました。そもそも国家公務員試験を外国人は受けられません。人事院規則の決まりです。でも、契約社員とか短期のアルバイトは法律とか人事院規則にないので、どうなのかなと思って片っ端から官庁に電話してみたことがあります。

 総務省に「外国人は応募できるんですか」と聞いたら、しばらく裏で音がしていて――おそらく六法をひいたりされていたと思うのですが――「国家公務員に準ずる仕事をしていただくので人事院規則に照らして、できません」という答えだったんですね。では、ほかの省庁に比べて募集の数がものすごく多い経済産業省はどうか。経産省に電話してみると、「法律にダメとは書いてないからいいですよ」みたいな答えなんです。すごい差で、これ自体論文が書けるほどだと思います。

浅羽  経産省のほうは六法をめくっている音は聞こえなかった(笑)。

木村  めくっていたかどうかは分かりませんが(笑)。法律がないので大丈夫です、絶対採用しますということではないですが、応募はできる、と言われた。そういうことを調べると、実際、法がどう運用されているか分かるわけです。こんなふうに、法を学ぶというのは条文を調べて、それで終わりじゃないんです。それを大学では叩き込まれるわけです。

木村草太さん。

■法律を見ただけでは分からない

木村  比較法が難しいのはそこです。外国の法は、条文を見ただけではそのとおりに運用されているかどうかは分からない。例えば、昔の共産圏の憲法は条文としてはすごく立派なわけですが、だからといって表現の自由が日本やアメリカと同じ意味で保障されているとは、普通は考えないわけですね。実際、法がどう運用されているかというところまで見ないと法は分からないという指導を受けました。

浅羽  木村さんも今、首都大学東京で、そのように教育されているということですね。

木村  そうですね。法律の文章というのはあくまで文章であってガイドラインとまでは言いませんが、それがそのまま法の世界を写し取ったものではないんですよ、ということを注意して教えるようにしています。

浅羽  NHK出版のホームページにある「編集担当者より」というコーナーには、執筆をオファーされた経緯が紹介されていました。なんでも、編集者の方が木村さんの『憲法の急所』(羽鳥書店、2011年)を読んでみたものの歯が立たないくらい難しいので、自分にも分かるように書いてもらおうと思ったのが新書というかたちに結実したそうですね。『憲法の急所』は、一つひとつの論点について、肯定側と否定側それぞれで立論したうえで、私の言い方だと「悪魔の代弁人(devil’s advocate)」(詳しくは「<悪魔の代弁人>を立てるかどうか、クライアントこそ問われている」を参照してください)になったつもりで突っ込みを入れて、最後は判事の立場で両者を比較衡量するという構成になっています。「想像」と「創造」の反復訓練をこういうふうにさせているんだなと、法科大学院の学生になったつもりで読みました。

木村  ありがとうございます。今の司法試験の問題が原告と被告両方から主張を書きなさいというものなんです。私も法科大学院の講義では、あなたの主張はひとまず置いておいて、このクライアントを守るために最善をつくすにはどうすべきかを考えるのが法律家の基本だと思うと、話しています。そうした厳しい思考をすることで、議論を深めていくということが大切です。憲法論議でも都合のよいところしか見ないと護憲も改憲も議論が浅いレベルで収まってしまう。そこを意識する必要があるんだと思います。

■水も漏らさぬ議論

木村  『憲法の創造力』は右からも左からも文句が出る本ですが、それは、「一人一票と言っているけれど、それは本当なのか」みたいな左の人を怒らせるようなことも書いている一方で、憲法学者として「ちょっと、今の政権は行きすぎでは」みたいなことも書いているからでしょう。それは、やはり、一度、両方の立場に立ってみてから自分なりの判断をしている。どちらかに偏るのではなく、厳しい思考をしたうえで出た結論でないといけない。それは、まだまだ不十分な点もあるとは思いますが、いつも意識していることです。

浅羽  私は幼いころ弁護士が身近にいて、ずっと憧れていたので、対談の冒頭で、政治学者のわりにはリーガルマインドがあると言っていただいたのが、とてもうれしかったです(笑)。

 一本調子の議論、主位的主張だけでよいという議論がよくありますよね。一つ非常に強い主張があれば、あれこれほかは考えずそれだけで立論してくれ、という威勢のよいクライアントに対しては、どう臨むのが弁護士のあり方でしょうか。私の本の言い方だと、竹島領有権紛争はもちろん、「尖閣イン・ザ・ハーグ」という万が一の可能性に備えて最強のディフェンス・チームを立てるかどうか、クライアント次第ということになります。

木村  どんな勝負も一緒ですが、向こうも勝とうとしていますので、一本調子の議論は、やはり得策ではありません。法律の答案は、自分の一番強い主張からカードを切っていくわけですが、このカードがダメでもこうですよ、一枚目のカードが否定されると自動的に四枚目のカードが有効になりますよ、というような、水漏れのない答案と言いますか、そういう戦術がきちんと書けることが必要です。自分の有利な点は全部主張して、相手の有利な主張を全部つぶしておくというのが法律家の基本です。特に法科大学院では、そのような厳しい思考を身につけてほしいと思って教えています。

浅羽  クライアント自身が、そういうことがよく分からない、リーガルマインドが低い場合は?

木村  日本政府というのはそういうところがありますね。

浅羽  私は、誰がそういうクライアントだとは申し上げませんでした(笑)。

木村  浅羽さんの本の中に「独島イン・ザ・ハーグ」(第三章)というおもしろい一節があります。日韓がオランダのハーグにある国際司法裁判所で竹島の領有権を巡って法廷で論争するという2009年に韓国で刊行された小説の話です。これは韓国の側がどう、日本の側がどうという話ではなくて、純粋に知的ゲームとして興奮できます。その中で、韓国から見たら日本は国際公法上のアドバンテージを持っているという話がありますが、実際、そのとおりで、日本の国際公法学の水準の高さを日本政府が生かしてくれていればよいのですが、どうも、そうではないようです。

 知的にアドバンテージを持っている日本人が大勢いるのに、日本政府には、それをうまく生かしていこうという感じがあまりしない。改憲問題なども典型です。立派な憲法学者を集めて審議会をつくり、まともな改憲案を出せば、かなり強力な改憲論の論陣をはれると思います。現状は、政権に近い考え方の人を集めて話を聞いて終わり、という状況に見えて、それは、すごくもったいないと思います。

 やはり、最後は頭脳戦ということを浅羽さんはいろいろなところで強調されていますが、そうした感覚が浸透してくれば、持っているアドバンテージを生かせるようになるのではないでしょうか。

■多様な社会の重要性

浅羽  日本社会の持っているアドバンテージで最も強いのは、木村さんの本でも書かれているように、実に多様な人々がいるということです。共約不可能な、同じ物差しで測れない人々がいるときに、その多様な人々が公平で自由なルールに基づいて社会を「創造」していく。そのためにも多様な人々がいるということを「想像」することから始めないといけないわけですね。

 それこそ、一神教の神を信仰している人に「うちの祭りに参加してもいいよ」と言うようなことに対する「想像力」ですね。それこそが、日本社会の一番の強みだと木村さんは考えているのではないでしょうか。だからこそ、こういう立論をされているのだと思います。

木村  そうですね。最近、WEBRONZA(「憲法96条改正はなぜ問題外なのか?(下)――政権の提案の本質」)というところにも書いたのですが、社会的弱者の地位向上を願う心優しい方々から見ると、日本政府、特に最近の自民党政権というのは人権に対して冷たいとか、強権的だとか感じると思います。しかし、私は、「人権」という価値観すら共有されていない諸外国の政権に比べれば、これまでの自民党政権や民主党政権は、よほどましだったと思います。

 時には目に余るほどダメなこともしていますが、基本的な水準では人権を尊重していますし、憲法に違反してはいけないという規範意識を持って活動し、裁判所に違憲だと言われたら粛々と修正に努めている。できているところはきちんと見てあげないといけない。

 「日本には多様な価値観を持つ人がいて、それを尊重しなければいけない」という最も根本的な価値観は、日本の為政者にも、それを選ぶ日本国民にも共有されているし、されてきたと思う。それを維持していくというのはすごく大切なことです。

■憲法と政治の微妙な関係

浅羽  「憲法と政治のジレンマ」というのは、双方向ゆえに「ジレンマ」です。政治にしたがえて憲法を変えようという部分もあれば、憲法に則って政治が動くように理念の力で規定していく部分もあります。その意味で、日本国憲法の下での戦後66年の歩みは、他国と比べても、憲法が政治を規定してきたと言えるのではないかと思います。そのことは評価できる、さらには誇ってもよいとお考えですか。

木村  そのとおりだと思います。例えば、最近でも児童ポルノ法の改正論議が出ていますが、憲法21条の「表現の自由」からかなり強力な反対にあっています。ちょっとおかしな改正案が出てきたら、憲法に基づく反対意見が示され、どういう制度ならよい制度ができるか議論をする。そのなかで法律ができていくという面があった。

 逆に、政治の側でいろいろなアイディアが出てきて、憲法が考えたこともないような課題に直面することで新しい憲法理論が出てくるというのもよくあることです。それは政治と憲法の力学として観察しても、研究してもおもしろいと思います。

浅羽  「憲法と政治のジレンマ」の歴史と理解すると、「憲政史」に注目することができます。戦前の日本では政党の名前になるくらい「憲政」というのはアクチュアルな言葉でした。韓国では今でも、何かあると「憲政史上初めて」という言い方がされますが、最近の日本では「憲政」が生きた言葉として規定性を持たないということについて、どうご覧になりますか。

木村  憲政という言葉が顧みられなくなったのは、憲法に沿って政治をするのが当たり前になったからではないかと思います。もちろん、9条をめぐる議論に現れているように、憲法と政治の間に緊張関係はありますが、「憲法に従わなければならない」という規範そのものは、日本国内で共有されていると思います。

 憲政史ということが高らかに言われた明治維新から昭和初期までの時代は、首相、議会、軍部など政治アクターたちの間で国政上のルールの綱引きが行われていました。韓国でも、大統領の任期延長が何度か発議されてきました。その反省からか、現代の韓国憲法では現職大統領の任期を延ばすような改正はできないという条文まで入っています。

 日本では、議会制や内閣制を変えてまで自分の権力を拡張しようという野望を、政治の側が持たなくなるぐらいに、現行憲法が安定的に運用されてきた。憲政の真ん中にいるので、憲法政治ということがあまりクローズアップされなくなり、空気のようなものになってしまったという面はあると思います。

浅羽  あって当たり前の土台になっているということですね。

木村  それがよいか悪いかは微妙な問題です。法に従って動いているのは確かによいことです。しかし、一方で、まったく意識されなくなってしまうと、それがいかにありがたいものかということも意識されなくなってしまう。

浅羽  図らずも、今回の対談のタイトルが「憲法と政治のジレンマ」となっているのは、その土台がちょっと違った局面に入ったということでしょうか。

木村  四月から五月前半にかけての政権の動きというのは、憲法政治の根本の部分に手をつけようという話でした。韓国の政治状況を見ても諸外国の政治状況を見ても、法に従って安定した政治を運営できるというのは、実は結構、奇跡的なことなのだということが分かります。そうした意味でも、国際的な視野を持って各国の事情を知るというのは楽しいことだと思います。また、我々のインフラを意識するうえでもよいことです。

浅羽  四月以降、根本の部分が変えられようとしたとのことですが、木村さんの本は四月に出版されています。四月以降の動きについて、補うとするといかがですか。

木村  まさに、憲法の改正手続きを定めた96条がなぜ必要だったのかということが分かったということです。私も96条改正案が出ていることは以前から知っていました。しかし、96条改正を本気でしかも独立でしようという動きが現実になるとはさすがに思っていませんでした。今から考えると見通しが甘かった。ですから、それについて補論を書きたいと思います。実際、今、原稿をいくつか準備しています。

浅羽  『憲法の創造力2』のような続編が出るのですか。

木村  『創造力』の続編というかたちではありませんが、改憲・護憲という問題について、本当にいろいろな方から聞かれましたし、マスコミの方々からも取材をいただきました。そういう経験を活かして、みんなが知りたいと思っていることをお伝えできるようなかたちで、書いてみたいなと思っています。

木村さんと浅羽さんのクロストークはまだまだ続く。

【第3回】へ続く…

構成:河村信


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