大野更紗の『会ってみたいひと』特別編:大野更紗×麻木久仁子
ベストセラー『困ってるひと』で一躍話題となった、若手作家の大野更紗さん。NHKの総合福祉テキスト『社会福祉セミナー』では、大野さんが人生の先輩をお迎えして「社会福祉」について語り合う、「対談 大野更紗の『会ってみたいひと』」を連載中です。
連載第1回(『社会福祉セミナー』2013年4~7月号掲載)のゲストは、麻木久仁子さん。ラジオ番組などで若手論客と語る機会も多いという麻木さんは、自身の闘病体験などもふまえながら、福祉の現状やこれからの課題について熱く語ってくださいました。
大野 更紗 (オオノ・サラサ)
1984年、福島県生まれ。作家。上智大学外国語学部フランス語学科卒。学部在学中にビルマ(ミャンマー)難民に出会い、民主化運動や人権問題に関心を抱き研究、NGOでの活動に没頭。大学院に進学した2008年、自己免疫疾患系の難病を発病する。
1年間の検査期間、9か月間の入院治療を経て退院するまでを綴った『困ってるひと』(ポプラ社)で作家デビュー。2012年「第5回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞」受賞。最新作は『さらさらさん』(ポプラ社)。
麻木 久仁子 (アサギ・クニコ)
1962年、東京都生まれ。学習院大学法学部中退。知性派タレント・クイズの女王として、情報番組キャスターからバラエティ番組まで、テレビ・ラジオに多数出演。また最近は、雑誌や新聞、ブックレビューサイト「HONZ」(http://honz.jp/)などでの書評家としても活躍している。近年、脳梗塞・乳がんと、相次いで病に襲われていたことを、2012年末に公表した。近著(いずれも共著)に、『日本建替論』(藤原書店)、『ノンフィクションはこれを読め!』(中央公論新社)がある。
「伝える」ことの難しさ、普遍性
大野
麻木さんのお母様が心臓の大手術を受けられ、そして麻木さんご自身も「脳梗塞」や「乳がん」を患われて……それがこの2年余りの間に立て続けに起こったことで、「社会福祉」を身近に感じ、いろいろと考えさせられたというお話を麻木さんからうかがいました。また、健康保険などの社会保障制度の存在の重要性も痛感されたそうですね。そうしたご経験をふまえて、今回の対談で「福祉の専門家へのリスペクト」が必要だとおっしゃっていたのは、私もそのとおりだと思います(詳しい対談の内容は、NHKテキスト『社会福祉セミナー』2013年4~7月号に掲載されています)。
そして、ここからは、「伝える」お仕事を長年されてこられた麻木さんに、「伝える」ということについてお話をうかがいたいと思います。
例えば、福祉職――特に行政に関わっている人、施設で働く人、実際に現場でヘルパーをやっている人も含めて、女性の比率はすごく高いですよね。あくまで、ほかの仕事に比べて、相対的に見てということですが。
一方で、言論空間は圧倒的に男性が多いのです。メディアの場合もそうで、編集者は女性が結構多かったりしますけれど、テレビやラジオ、新聞記者などは男性がとても多い。そして、特にマスメディアの管理職です。日本のマスメディアの管理職における女性の比率はすごく低いと思うのですけれど、そういうことも「伝える」ということに、なにがしか関係している、影響があるのかなとも思っています。こうした職場での女性が占める割合などは一例ですけれど。
麻木さん、福祉に携わる専門家が発信していくことへのアドバイスはありますか。あるいは「伝える」ということそのものへのお考えや思いをお聞きしたいのですが。
麻木 難しいですよね。「伝えていく」ために何が必要かということですか?
大野 麻木さんも、自分が思ったようには物事が伝わらないと感じることもありますか?
麻木
伝わらないですね。私もいろいろしゃべり伝えるということをやっているわけですが、それが自分の職業と直結してくるとなると急に黙る……少なくとも口ごもってしまうというところはあります。
いまここで私は、自分自身が個人として感じることを言ってはいるけれども、ではそれをラジオやテレビなどのメディアで働く人として、普遍化して「どうやって伝えたらいいのか」ということになると、ものすごく難しいテーマですよね。
特にマスメディアのなかで伝えていくということは、商売に関わることですから、商業ベースにもならなければならないわけです。そのときに多くの人の耳目を集める伝え方をしようと思うと、これも皮肉な話なのですが、視聴者が実感できることを先に伝えようということになってしまう。例えば「福祉の現場で頑張っている若者がいます。彼は子どものころに、おじいちゃん、おばあちゃんが苦しんでいるのを見て福祉の仕事を志しました。さまざまな努力をしながら、決して高くはない給料で頑張っています。偉いですね」というような話が先にきてしまうわけです。
専門性などさまざまなものがいかに必要か、そこにどのくらいのお金がかかって、それを社会全体が負うべきコストとして払うべき意義はあるのか、というようなことを伝えるには――もちろん、そうしたことを伝えなければならないと考えるメディア関係者もいるのですが――何か一つ伝えたいことがあったら、九つぐらい、もしかしたらもっと多くの“お涙ちょうだい”というか、何かしらキャッチーなことを言わなくてはならない。そして、そこに反応してくれた人に、その勢いでもって「そんなわけだから、全体のシステムをちょっと考えてもらえませんか?」というような持っていき方をせざるをえないわけですよね。
大野 核心ではない、伝えたいことをくるんでいるオブラートが99くらいあって、核となる主張は1くらい、というイメージでしょうか?
麻木
そうです。1か2という感じでしょうね。
その“1”を聞いてくれた人でも、「そうなのか、頑張っている若者のために大事なのはシステム全体を考えることだ」というところまで理解してもらえているのか、それはものすごく難しいことだと思います。しかも、核心の“1”以外の99のほうを受け取って、「いい話だったね」と思うだけの人もいるでしょうから。
ただ、メディアと言ってもいろいろあって、新聞もあれば、テレビ、ラジオ、そしてネットもあります。例えば「SYNODOS(シノドス)」(*)の活動もそうだと思うのですが、初めはそれほどお客さんがいないところから出発しても、一度うまく回って実績となるものをつくることができたりすると、ちょっと見てみよう、聞いてみよう、読んでみようとなることがある。そういった機会をつくらなければいけないのですが、ただこれは百発百中とはいかなくて、メディアの関係者にもそうした現実のなかで何とかしたいと思っている人たちがいて、それぞれの立ち位置でやっていると思います。
膨大な数のそうした試みがうまくいくのかはわかりませんが、すごくつまらない答えになるけれども“地道な努力”しかない、ということになるんですよね。
「福祉の現場」という実体があるのに、発信ができない
大野 いま麻木さんが“地道な努力”とおっしゃったことで言えば、例えば行政の福祉サービスの担当者がラジオに出演しているというのはあまり聞いたことがないですよね。すごく重要な職業なのに、「私は××区の障害者福祉課の○○です」とか「△△という特別養護老人ホームの施設長です」といったような人は、一般的なメディアではなかなかお目にかかれない。“ラジオで話せる現場の行政人”的な人は必要かもしれないですよね。
麻木
現職の行政の人たち――官僚とか元官僚といった人たちを出すのは、ぶっちゃけて言えば、バランスを取るというかアリバイづくりというか、「ちゃんと当局のご意見は出しました」というふうにしたいからなんですよね。もしかしたら、メディアの側にも、「当局の言うことは建前にすぎない」とどこか決めつけているところがあって、ものすごくつまらないことを言っていただいて、それでおしまい、みたいな(笑)。
一方で、これはいまの“煽り”をしてしまうメディアの側の問題でもあるのですが、例えば現場の公務員や、社会福祉法人でも公的、あるいは公的とみなされているところに属する立場の方が実際にメディアに出るとなったら、「私個人の思惑では言えません」というようなところがありますよね。「所属する組織とは関係ない一個人の意見です」とエクスキューズしないといけない。自分が言ったことが、自治体や役所全体の意見、あるいは社会福祉法人の見解だと受け取られるのは困る、というわけです。
つまり、公に類する――これも定義は怪しいのですが――ところにいる人が、それと同時に一個人として、率直に個人の意見を述べることを許せないという空気が、受け手の側の一部にあるんですね。「こんなことを言ってけしからん!」ということになって、いわゆる“電凸(*)がいく”ということになってしまいます。
世の中全体として最近、一方で「本音主義」と称する“論”とも呼べないような悪意の垂れ流しみたいなものをもてはやすかと思うと、もう一方では「建前」が厳重に囲われていて、その建前に楯突くような本質的な話は軽々には言えませんという、何か非常にバランスの悪い状況になっているような気がしています。どうなのでしょうか。
大野 確かにおっしゃるとおりで、それはまだ日本では組織や所属と、個人とを切り離して考えることに慣れていないからではないでしょうか。慣れてしまえば、いい意味で“いい加減”に聞くというか、確かにこの人はナントカ区役所の人だけれど、その意見が区役所全体を代表するわけではないし、でも区役所の何らかの空気はこの人から読み取れるだろうし、とりあえず聞いておこうじゃないか、というような聞き方ができるようになってくると思うんですよね。
麻木
いまはまだ、ネットなどで“拡散”してしまって、個と所属や属性を分けて考えられない人たちからフィルターなしに抗議がどっと来てしまいますから、現状ではやはり発信するのはやりづらいでしょうね。ネットのおかげで、もっと率直に話ができるようになったのかと思いきや、むしろ余計に話しづらい、率直な意見の表明がしづらいという“空気”はありますね。福祉でもメディアでも公務員一般でも、そういった仕事をする人は「もっと立派な人じゃなければいけないのに、なんだ!」ということになりかねない。
もう少し慣れてきて、「ちょっと待てよ、そんなケチばかりつけているのもおかしいんじゃないの」とか「福祉の仕事をしている人だっていろいろな人がいるんだし、それぞれ出合ったケースによっても感じたことが違うだろうから、ほどほどに聞いておけばいいんじゃないか。こちらも意見を言うときはほどほどにしよう」とか、そういう方向になるといいと思いますね。批判でも何でも、全部言い切ってしまうのではなくて、落としどころを探ったり、いろいろな情報や意見が出やすくなったりというふうになるまでには少し時間が必要なのかもしれません。
だから、社会福祉に関わる人がもっと伝えていかなければならないと思いながらも、伝えないのはダメでしょと言えないのは、先頭をきって伝える側に回った人が、いわゆる“炎上”して大変なことになってしまうかもという怖さがあるからだと思うんです。まぁ、みんながそういうことを言っていると、一歩も前に進めないわけですけれど。
大野
お話をうかがっていて思ったのは、何か言葉のミスがあったときに“炎上”してしまうということについて、福祉に携わる人には対抗軸があるかもしれないということです。
福祉関係に携わる人たちの強みの一つは、「現場を持っている」ということなんですよね。確実な実体を伴う現場があるからこそ、それをもとに話せることがある。「私たちは、こういう人たちをこうやって支援しています」という具体的なものを持てている。言い換えれば、実体はあるけれど、それを発信することがなかなかできていない人たちということもできるかもしれません。だから、現場を持っていることを活かして、うまく伝える、発信していくことができないかな、できるのではないかなと思いますね。
人の生き方についての、共通の理解を!
大野
私自身のことで言えば、メディアで発言する機会を持つことがある程度あって、だからこそ自戒的に考えることがあります。例えば、「『大野さん』のおっしゃることはよくわかります、ぜひそうしましょう」ということを、その場ではコンセンサスを持てるかもしれない。しかしそれでは、社会の制度を変えることにはならないんです。大野という人格を前提にした説得ではなく、誰でもどんな状況でも使える論理性をつくらなければ、当事者の「武器」にはならない。
そして、政策や制度を実際に変えていくためには、経済や財政、政治にコアで関わっている人に納得してもらわないと、なかなかうまくいかない。自分はこういう社会をつくりたいと考えても、福祉であれば福祉の業界のインサイドだけで通じる言葉で伝えても通じないわけで、もっと広い共通の言葉でしゃべらないといけないのではないかと思っています。「大変なんだよ」だけではなく、共通の理解にしていく、しかもお金の話にもしていけるような共通言語をつくるのはとても大事なことです。しかもそれは広く一般の方にもわかってもらわないといけないのだから、やはり「伝える」ことが必要になるのかなと思うんです。
麻木 お金の話になると、確かに大変だし、共通理解が必要ですよね。
大野 人生における潜在的なリスクを踏んでしまった人たちに対して社会が資源や人やお金を割くことが必要で、そしてそのリスクというのはいつでも誰でも踏む可能性がある、ということについてのコンセンサスを得るためには、地道にコミュニケーションをする、「伝える」ことが大事なんだという、とても凡庸な話になってしまうんですけれど。
麻木
そういう「伝える」ことを考えるうえで大事なのは、想像力だと思います。
人間というのは、大野さんの本の言葉を借りれば、「どんなクジを引いちゃうか」というのはわからないわけだし、頑張っていてもダメなときもあるし、頑張らないほうがいいというときもある。人間は常に強いわけではないし、強い人もいれば弱い人もいる。あるいは、一人の人間の人生のなかにも弱いときと強いときがあるわけですよね。自分の能力にしても、自分の運命にしても、わからないことだらけです。
福祉問題でも教育問題でも、昨今はいろいろな“議論”が盛んですけれども、人生というものを安易に“モデル化”して、「こんな生き方が立派です。これを目指して頑張れ」とか「努力する人が報われる社会を」とか、そんな簡単にまとめないでよ、と思うんですよね。人間はもうちょっと頼りないというか、お互い不確かな存在だよねということを、先ほどのお話で言う共通理解、共通の言語として前提にできるといいのかな、と感じました。
人間は不確かなものであるという一方で、専門家たちがコツコツと積み上げてきた“知見”というものはあって、そういう共通の理解があれば、お金のことにしても、どこに使っていくかという議論にしても、深まっていくのではないかと思います。
そして、想像力についてなのですが、先ほどお話しした「立派」で「努力」するというところに典型的に現れるのではないかと思っています。人間が頑張るときには“物語”が必要なんですよね。特別頑張った私、努力が報われた私、みたいなストーリーが必要で、ですから、その努力が報われる社会、報われるべく頑張っている自分というような物語を根底から否定しようとは思っていません。
しかし、それを言う「しばきあげ体質」というか……「おれたちの若いころは」と言いたがる私と同世代、あるいはその上の世代のオジサンたちには特にわかってもらいたいのですが(笑)、過去において、その「努力」がストレートに報われたのであれば、それは広く社会全体で良好な経済状態があったからだ、ということをちゃんと認識したほうがいいですよ、ということなんです。いまは、そういう経済状態ではありませんから、かつてよき時代を謳歌した人たちが説教しながら若い人たちをキリキリと締め上げるというのは、いかがなものかと思いますよ。
奨学金や生活保護の件では特に顕著ですが、人はみんな頑張った自分というものに目を奪われてしまって、そして頑張らないやつらが悪いんだ、という話になってしまうんですよね。でも、それを言っていると、病気や障害のような、その人の責任でなく降ってきたことに対しても「頑張ってみせろ!」という話になってしまう。「自分がいつ、どうなるかもわからない」とか「明日はわが身」とか、そういう想像力を欠いてしまっているというのは、やはりよろしくないと思うんですよ。
大野
そういう共通の理解をつくっていかなくてはいけないのだと、いまお話をうかがって強く思います。
想像力を失わないために「伝える」ことについて、これからも麻木さんには“羅針盤”のような存在であってほしいと思います。
今日はおもしろいお話をありがとうございました。
写真撮影:高橋しのの
【了】