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2015.04.24
2012.11.21

テヘペロが許容される社会に:苫野一徳 ✕ 家入一真

NHKEテレ「ニッポンのジレンマ」で2012年5月に放送された「僕らの救国の教育論」に出演した教育哲学者の苫野一徳さんと、起業家であり『もっと自由に働きたい』『こんな僕でも社長になれた』など若者の“生き方”や“働き方”を語る家入一真さん。異色のコラボレーションとなったお二人の対談は、いつの間にか意気投合。ついには現代社会や今を生きる若者たちへの強烈なメッセージとなりました。

苫野 一徳 (トマノ・イットク)

1980年生まれ。哲学・教育学者。熊本大学講師。社会や教育の根本原理を哲学的に探究している。著書に、『「自由」はいかに可能か―社会構想のための哲学』(NHKブックス)、『教育の力』(講談社現代新書)、『勉強するのは何のため?』(日本評論社)、『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ)など。

家入 一真 (イエイリ・カズマ)

1978年生まれ。Liverty代表。起業家/クリエイター。paperboy&co.を創業、JASDAQ最年少上場社長に。カフェやウェブサービスなどを手がける。著書に『こんな僕でも社長になれた』『もっと自由に働きたい』。

「自由」って何でしょうか?

家入  最近『もっと自由に働きたい』って本を出したからなのか、講演の質疑応答なんかで「家入さんにとって自由の定義は何ですか?」と最近よく聞かれるんですよね。

苫野  あーむずかしい質問ですね。

家入  働き方にもよるかもしれないけど、“依存しなくてもいい状態にある”のが自由なのかなって僕は思うんです。たとえば、会社に就職したら生活費を会社からもらう給与に依存しますよね。そうしたら会社が潰れたら困るし、リストラされないようにしなきゃいけないので、会社が多少理不尽なことを言ってきても我慢しなきゃダメになります。もし、依存せずに会社と自分が対等な関係にあれば「じゃあ辞めるよ」と言えるはずです。そうやって、いつでも自由に飛び出せる状態にあることが「自由」なのかなと思っています。これって会社だけじゃなくて、学校も親子関係も友人関係も同じだし、電力を原発に依存する国もすごく不自由なんじゃないかな。だから、依存しないためにはどうしたらいいのかを考えていこうっていうのが、僕の「自由」です。

苫野  なるほど。

家入  そう考えると小さい政府でいいんだっていう「新自由主義」とかとフィットする部分があると思うんですけど、どうでしょうか。

家入一真さん。

苫野  うーん、おそらく「新自由主義」だと、家入さんがおっしゃるような“依存しない生き方”をできる人が一部に限られてしまうという問題があると思います。あまりひと口に「新自由主義」とまとめてしまうのもよくないとは思うのですが、いわゆる「新自由主義」には徹底的に競争する、悪く言えば弱者を切り捨てたとしてもある程度は仕方がないとする発想があります。で、一部の勝ち組が経済を引っ張っていけば、負け組もそのおこぼれにあずかれるからいいじゃないかというような発想もどこかにあったんですね。でも競争に負けてしまうと、依存するどころか従属しないといけなくなりますよね。そうならないような仕組みを考えた方がいいかなと思っています。

家入  そうなんですか。「新自由主義」とはちょっと違いますか。

苫野  家入さんが考える「自由」が“依存しなくてもいい状態”なら、僕は“生きたいように生きられる感度”を「自由」と呼びたいなぁと思います。“依存しない”っていうのは、そのための最大条件である気がするんです。その意味で家入さんの言い方はとても実践的ですね。

家入  感度。感覚的なものですか。

苫野  感度は人それぞれで、たとえば“自由すぎて何をしていいかわからない”という人は、ある程度何かに依存している方が楽だったりしますよね。その意味で、何を「自由」とするかは人によってバラバラだと思います。ですので、基本的に僕は自由を感度と捉えています。

家入  なるほどー。会社に出勤するのに私服の方が自由だと思う人もいれば、スーツの方が自由だと思う人もいるってわけですね。僕もスーツって決められた方が楽かもしれない(笑)。そっちの方が自由ですね。

テヘペロ(・ω<) でごめんね

苫野  そういう“みんなが自由の感度を得られるためのいちばんの土台”って何だろうとずっと考えていました。その結果、『どのような教育が「よい」教育か』にも書きましたが、一番重要なのは「自由の相互承認」なんじゃないかとたどり着きました。「自由に生きたい」とみんなが自由を主張したから、人類の歴史には争いが絶えませんでした。戦争をできるだけなくすにはどうすればいいか。人類は1万年以上にもおよぶ戦争の歴史を通してずっと考えてきたのですが、ようやく200年ちょっと前くらいに、ルールとして自由を相互に認め合いましょう、その相互承認をもとに社会をつくりましょう、という「考え方」に到達したんです。教育も、その「自由の相互承認」の感度を育みながら、すべての人が自由になるための力、つまり生きたいように生きられるための力を身につけるためにつくられたものです。あまり知られていないというか、自覚されていないことかとは思うんですが。僕はこんなふうに、人が自由になるための最も根本的な「原理」を考えてきたんですが、家入さんの場合、ある意味もっと実践的に、「じゃあ自由になるためにはどうすればいいのか」というアイデアをたくさんお持ちですよね。

家入  たぶん僕は身近にいる一人ひとりを見ながら「依存するな」とか「自由に生きろ」と言っていて、じゃあそのために何をしたらいいかを考えているんだと思います。たしかに、苫野さんのおっしゃるようにマクロな見方だと一人ひとりがわがままを言っていると争いになりますよね。でも、僕は周りにいる子たちには「多少迷惑をかけてもいいから自分の好きなように生きろ」と言います。前回の話にもありましたが、空気読みすぎて空気みたいになっちゃっている子がすごく多いと思います。だから、多少迷惑をかけても自分を解放して、他人に迷惑をかけてしまったら、それはそれでテヘペロでごめんねって謝る。そんぐらいの感じでいいかなって思います。まあ、社会全体がそんな生き方になったらみんな大変ですけど。

苫野  たしかに、もっとテヘペロが許容される社会になるといいですね。価値観が固まってしまうと、別に自分にそこまで迷惑がかかってない場合でも「許せない」って攻撃してしまいがちですが、「それぐらい大目に見ようよ」って言えるような、生き方の多様性を認めあえる社会。それって何らかの仕組みに支えられる必要があると思うんですが、実は哲学者は、家入さんのように新しい時代をつくっている人を見て原理を知るというところがあるんですよね。昔、ドイツの哲学者ヘーゲルはナポレオンを見て社会の原理をつかんだと言いました。僕はそういう意味で家入さんを見ているとワクワクするんです(笑)。

苫野一徳さん。

家入  なんか、いろいろと過激で、すいませんね(笑)。

苫野  そのヘーゲルという哲学者は「事そのもの」という概念を提示しています。僕なりにデフォルメして言うと、自分にとってほんとうの事そのものが、他者にも「それってほんとうの事そのものだよね」と承認されたときに人は最高の自由を感じる、という言い方をヘーゲルはしているんですね。それができるだけ充実できるような社会をつくっていきましょうという話を200年も前に言っています。

家入  要するにフェイスブックの「いいね!」ってことですかね。

苫野  なるほど!家入さんの発想はまさに実践的でいいですねー。そう考えると先ほどの「他人に多少迷惑をかけても自由に生きろ」というメッセージは、迷惑かかったらテヘペロして他者に承認してもらえってことでもありますね。そうした寛容な社会って、それぞれの人が「事そのもの」を探究しようと思いやすい社会だと思います。おもしろいですね。

先生:「好きな人とグループを組んでください」 僕:「……(ポツン)」

苫野  家入さんがいろいろな活動のお話をされるなかで、「居場所」という言い方をしているのがすごく大切だなと思いました。イギリスの心理学者ジョン・ボウルビィが言った言葉で、心の安全基地と訳される「セキュア・ベース」という言葉があるのですが、これはとても大事なことだと思っています。いつでも自分がしたことを認めてくれる人、いつでも自分のことを思ってくれる場所。そういう場所があると人はがんばれるし、人に対して寛容になれます。逆に自己不安におびえていると、ちょっとしたことで他者を攻撃してしまいます。安全基地があるかどうか。どうやって今の教育の仕組みのなかに子どもにとっての安全基地をつくっていけるか。これが僕の最近のテーマです。

家入  たとえば、一クラス10人に減らしたらいいとか、そういう問題でもないのでしょうか。

苫野  10人とか少ない人数であまり仲良くなかったりすると、逆にキツいということもあるかもしれないですね。学校で「はい、じゃあ好きな人とグループを組んでください」ってやつがありますよね。

家入  あーありますね。

苫野  僕はひそかに悪魔の言葉って言ってたんですけど(笑)、先生がその言葉を言った瞬間に、教室内の子ども同士のヒエラルキーが可視化されるんですね。あの子は友達がいない、とか、あの子はグループから外されたようだ、とか。

家入  僕、組む相手なんかいなかったですもん。

苫野  あれは嫌な子どもが多いと思います。何が問題かといえば、「はい、じゃあ好きな人とグループ組んで」っていうのが、たとえば月に1回しかやってこなかったりするからキツいんですね。回数が少ないとグループが固定してしまう、グループに入れないからツラい、ということになってしまいます。でもちょっと逆説的になりますが、だからこそ僕は、いわゆる「協同的な学び」をとても重視しています。決まったグループじゃなくて、教科やプロジェクトごとにどんどん流動化しながら、日常的に、そして継続的に学び合う経験を重ねていく。色んな子どもたちや先生たちがかかわり合い学び合うのが当たり前の学びの場をつくる。それでもツラいという子もいるとは思いますが、どこかに気の合う子がきっといて、そのあたり、うまーく環境を作れたら、と思います。ともかく人間関係に流動性を、というのがポイントですね。

家入  流動的にっていうのはよくわかります。僕もLivertyの活動でよく言うんですけど、僕らがやっているのは会社でも学校でもないのでツイッターぐらいの関係性でいいんだと思います。ちょっと興味があればフォローして、ツイートがちょっとや嫌だなと思ったらリムーブして。そのくらいの関係性の組織にいくつか属することで、色んな顔を持つ。それぐらいがちょうどいいかなと思いますね。

子どもには色んな例を見せよう

苫野  家入さんの子どもの頃の夢は何でしたか?

家入  「夢なんて別にないです」と言い切ることにしてました(笑)。もちろん、小学生の頃なんかは消防士になりたいとか、それなりにあった気がしますが。大人を見てて子どもながらに思っていたのですが、「夢を持て」って言われても、そもそも「夢の持ち方」なんて教えてもらってないんですよね。中途半端に夢を持つぐらいだったら息苦しいかなって。

苫野  「夢を持て夢を持て」って言われ続けるのが、かえってツラいってことありますよね。

家入  10年以上前に読んだ本で、本の名前は忘れてしまいましたが“ドロップアウト”した人たちのインタビュー集を読んで、すごく励みになった記憶があります。内容はほとんど覚えてないのですが、色んな生き方をしている人たちが載っていて、成功している人もいれば、失敗している人もいる。とにかく面白い人たちだけが載っていました。僕も学校をドロップアウトしているわけですが、「あー何かいろんな人がいるんだなぁ」というか、勇気付けられたということがあって。夢もそうだけど、色んな例を見せてあげることが大事なんじゃないかと思います。

苫野  「色んな例を見せてあげる」とおっしゃったのはすごく重要なことだと思います。学校教育の観点から家入さんの発言に付け加えるならば、さっきも言いましたが、子ども同士が特性を生かし合って学び合うようにできればいいなと考えています。いっしょにプロジェクトを進めながら、プレゼンは得意だけど調べるのは苦手とか、調べるのは得意だけど逆にまとめるのが苦手とか、子どもたちがお互いに自分の特性を知り生かし合う経験こそがたいせつだと思います。特に小中学校では、そうしたプロジェクト型の学びは少しずつ増えていますが、これからもっと充実していけばと思います。そうした経験を子どもの頃から積んでいければ、自分自身で「なんとなくこうやって生きたら楽しいのかな」ということがわかると思うんです。

家入  僕にとってはジュニアLiverty的なものですね(笑)。僕も子どものうちから“ものづくり”とか“仕事”の価値観や考え方を教えてくような、地域に根ざしたフリースクールみたいなのができないかなと考えていたところです。そのときはまたアドバイスしてください!

苫野  もちろんです、むしろこちらこそお願いします。きょうはほんとにたのしかったです。ありがとうございました。

家入  こちらこそありがとうございました。


【了】

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