「ノマド」は空疎なキャッチコピーに過ぎない―宗教学から見る今日の社会 最終回 大田俊寛
宗教への問いは、現代社会に必要なのか――? 2011年に『オウム真理教の精神史』(春秋社)を出版し、宗教研究の再生に挑んだ気鋭の宗教学者・大田俊寛。理論的な考察に徹することでみえてくる、現代宗教の姿とは。宗教学の今日における意義と可能性を熟考する。
大田 俊寛 (オオタ・トシヒロ)
1974年生まれ、宗教学者。埼玉大学非常勤講師。著書に『オウム真理教の精神史』『グノーシス主義の思想』(ともに春秋社)など。
Q,宗教は根源的に人間に必要なものなのでしょうか。また、BLOGOSのインタビューで大田さんは、「現代の社会において、宗教としてのもっとも中心的な機能を果たしているのは「法人」である」と論じていらっしゃいます。これはどのような意味でしょうか。
A,『オウム真理教の精神史』(春秋社)でも触れたように、現在のところ私は宗教を「『虚構の人格』を中心として社会を組織すること、そしてそれによって、生死を超えた人間同士の『つながり』を確保すること」と規定しています。こうした仕組みなしに人間は生きていくことができないので、その意味において宗教は、人間にとって常に必要不可欠なものと言えます。また、この観点から私は、現代社会において宗教としての中心的機能を果たしているのは、国家や法人(会社)であると考えています。
私は大学での講義でしばしば、「不換紙幣」の例を挙げています。不換紙幣は英語でFiat Moneyと呼ばれますが、Fiatという単語は、聖書の『創世記』における神の「光あれfiat lux」という言葉(ラテン語)に由来しています。キリスト教において、「光あれ」という神の言葉によって世界の創造が開始されたと信じられているように、現代社会においては、「紙幣あれ」という国家の言葉によって経済を成り立たせる信用の仕組みが創設される。このように、人間の社会は常に、自然には存在しない特定の対象を、人々が共通して信仰することによって構築されているのです。現代における「国家」や「法人」や「貨幣」は、そういった存在です。宗教学は本来、こうした対象を積極的に分析しなければなりませんが、政教分離原則の影響から、国家はあくまで世俗的存在であり、宗教的存在ではないという通念が一般化しているため、議論が混乱しています。宗教学は、もつれた糸を丁寧に解きほぐしながら、考察を進めなければならないでしょう。
Q,終身雇用制が崩壊しつつあるいま、法人(会社)から宗教の機能は移行しつつあるのでしょうか。
A,終身雇用制の崩壊の他にも、世界的な金融危機や不況によって、経済の信用秩序が全体として動揺しているのは事実でしょう。しかし、だからといって、国家や会社に基礎を置いた現在の社会システムが、直ちに別のものに取って代わられるとは到底思えません。ポストモダニズムやニューエイジ思想では、そういった「革命」がしきりに喧伝されましたが、すべては幻想的で、現実に通用しうるアイディアは、そこにはほとんど見られませんでした。
ポストモダニズムで唱えられていた「ノマド(遊牧民)」という用語が、現在また流行しています。しかし、私の印象では、相変わらず内容空疎なキャッチコピーに留まっている。その実態はおおよそ、「個人事業の下請け」に過ぎないのではないでしょうか。「ノマドワーカー」が仕事をもらっているのは、大部分が会社からの注文のはずですから。ある程度の規模で中長期的な仕事を行おうとすれば、何らかの形の法人組織が必要だという現実は、今もまったく変わっていません。八〇年代のポストモダニズムでは、浅田彰『構造と力』(勁草書房)に見られるように、「ツリーからリゾームへ」という標語が唱えられました。中心点を持ち階層的に構成される「ツリー(樹木)」状の組織から、分散的で多方向的な「リゾーム(地下茎)」状の組織へと転換していこうということですね。ツリーが叩き壊されてリゾームになれば、人はより自由になれると思われるかもしれませんが、しかし、「リゾーム」は実際には、社会の「アノミー(無規範)」化以上のものを意味せず、しばしばそれは、悪質なネットワーク・ビジネスや自己啓発セミナー、カルト宗教の温床にさえなりえます。旧来の「ツリー」(=国家や会社などの組織のあり方)がうまく機能していないというのであれば、「ノマド」や「リゾーム」や「スキゾ」を扇動するよりも、別の形式の「ツリー」を考案するべきではないかというのが、私の考えです。
ポストモダニズムやニューエイジ思想が生み落とした数少ない肯定的なものの一つとして、コンピューターやインターネットの文化があります。それらは今後も発達し、少しずつ社会のあり方を変えていくでしょうが、過度な期待を寄せるのは禁物だと思います。ネット文化は、既存の体制に対する批判力や破壊力を持っていることは確かですが、しかし言うまでもなく、それらに完全に取って代わることのできるような根本的な社会形成力を持ってはいません。ネットの長所と短所をよく自覚し、現在の社会の弊害や欠点を可能な限り補正・補助するための道具としてそれを利用していくというのが、現実的かつ生産的な道ではないでしょうか。
― 完 ―