「数理のチカラ、僕らの未来」番組収録後インタビュー:大場紀章
2013年6月30日(日)0:00~1:30〔土曜深夜〕放送予定のニッポンのジレンマ「数理のチカラ、僕らの未来」収録後、出演者のみなさんにインタビューを行いました。
大場 紀章 (オオバ・ノリアキ)
1979年生まれ。(株)テクノバ 研究員。2008年京都大学大学院理学研究科博士後期課程(化学専攻)単位取得退学。テクノバはエネルギー、環境、交通、先端技術分野の調査研究を行うシンクタンク。専門は、エネルギー問題(ピークオイル論、シェールガス等)、無機物性化学。
――今回の番組で興味を持った話題、あるいは他の方の発言で印象に残ったものはありましたか。
大場 「不確実性」と「リスク」という言葉が気になりました。アメリカの経済学者フランク・ナイトは、「リスク」を確率によって予測できるもの、「不確実性」を確率によって予測出来ないものと、両者を明確に区別しました。例えば、家を保有する事は火災に遭う「リスク」を伴いますが、火災に遭う確率や損害額はある程度統計的にわかっている為に、保険という手段で「リスク」を担保出来るわけです。一方、起業するという行為は失敗する確率や損失を一般的に計算することが出来ません。ナイトはこうした「不確実性」に挑戦する経営者への報酬として利潤を基礎付けました。もちろん、皆が成功できるわけではありません。よく「リスクを取る」と言いますが、実は異なる意味を含んでいるということは知っておいて良いと思います。
これに関連して、「イノベーション」という言葉も気になりました。せっかくの番組テーマなので、できるだけ厳密な前提で話をしたかったのですが、議論で使われていた「イノベーション」という言葉の意味は、かなりゆらぎが大きかったように思います。ビジネスモデルのことなのか、テクノロジーのことなのか、基礎科学のことなのか。でも、そういう曖昧な概念の方が、聞いている方は魅力的な議論に聞こえてしまうという、まさにジレンマを感じました。
「数理のチカラ」という文脈で言うと、「イノベーションを起こそうとすること」を「不確実性」に対する挑戦と捉えれば、事前に予測可能な「リスク」、つまり「そんな事ちょっと考えればわかっただろ」という失敗を排除することの重要性を指摘しておきます。もちろん、私達には有限な時間しかないので、ずっと検討していては日が暮れてしまいます。その意味において、「やってみなはれ」が活きてくるわけです。
――ご自身の研究をふまえて、「数理のチカラ」とは何でしょうか。また、「チカラ」をツールとして使うとき、その可能性はどんなものでしょうか。
大場 「数理」という言葉自体には明確な定義はないと思いますが、私は「数理」と聞くと数理論理学か数理統計学をイメージします。数理論理学は厳密な論理的思考のようなものです。論理や思考のプロセスから曖昧さを排除し、ものごとを理詰めで考えていくことで、どのような結論が出るか、あるいはどのような結論がありえないかを示すものです。もうひとつの数理統計学は、現象をモデル化・パラメータ化することで、統計学的にシミュレーションする方法です。収録では、つい「理系」や「科学」、あるいは「コンピューター」と同義に使ってしまいがちでしたが、私としてはわざわざ「数理」とした番組側の意図をもう少し掘り下げたかったです。明治大学の総合数理学部では英語表記を「Interdisciplinary Mathematical Sciences(学際的数理科学)」とされています。やはり、文系vs理系などの枠組みで考えては、「数理のチカラ」を捉えられないと思います。
私が考える「数理のチカラ」として重要なものの一つに、直感に反する結果を得ることが出来るという事があります。人間は非常に優秀な頭脳を持っていますが、意思決定の合理性や統計処理の能力に弱点がある事が知られています。人間が何か考えたり行動を起こしたりする時、直感が先にあって、理屈があとからついてくるという感覚になる事があります。確かにそういう事は多いのですが、時々そうはならずに論理や統計が導いた結論を直感が受け入れられない場合があります。そのジレンマが「数理のチカラ」の醍醐味で、それを克服するプロセスこそが重要です。この話がしたかったのですが、「統計に騙されないようにするにはどうすればよいか」という話をしてしまったのが残念です。
ツールとしての「数理のチカラ」の可能性と限界を示す例として、学校のクラスの最適な席替えを数理的に考えてみます。例えば、それぞれの生徒が近くに来て欲しい子をランキングして、その情報を集めます。両隣や前後、斜めなどにどのランクの子が来るかによって個々の満足度を定義し、その合計により全体の満足度を算出するとします。これはモデル化・パラメータ化で、数理統計学的な手法です。これでなんとなく最適解が決まるような気がするとすれば、それは「直感」ですが、実際にはそう簡単には行きません。
数十人規模の席替えの組み合わせは有限なので、このモデルの最適解は必ず存在します。しかし、組み合わせは非常に膨大になることが簡単な数学ですぐに分かるので、シラミ潰しの手法は現実的ではありません。そこで、「そこそこ」の満足度となるいくつかの解を出来るだけ速く見つけるための様々な数理的手法が知られています。こうした近似解が得られるのは数理の極みたるコンピューターのチカラであり、人間ではなかなかできません。
そこそこの満足度の席替えパターンが例えばABCの3つ得られたとして、どれを選ぶかを投票で決めるとします。同じ満足度の値でも、現実には、「前の方は嫌だ」、「窓際がいい」などの他の要素があるため、人によってABCのどれがいいかは異なります。しかし、このように選択肢が3つ以上ある場合、完全に公平な投票方式は存在しない事がわかっています。この事実は数理論理学のチカラの成果です。つまり、どのような投票方式を選ぶかという事自体が、クラスの運営をどうしたいかという問題に直結しています。そのベストな選択肢は、数理のチカラで指し示すことはできません。
私が専門とするエネルギー問題は、席替え問題とは比べ物にならないほど様々な要素が絡み合うとんでもなく複雑な問題です。数理のチカラの限界を知った上で、それを最大限活用し、計算出来ない残された最後の部分、つまり不確実性に対する決断を行うのは、人間にしか出来ないというのが最も真摯な態度ではないか、と日々感じています。
――数理(あるいは科学)と社会とのかかわりについて議論が交わされました。数理的な思考と社会がうまく連動するにはどうすればよいでしょうか。
大場 社会が行き詰ったときに理系っぽい人がしゃしゃり出てきたり、呼び出されたりするということは歴史的に繰り返しているように思います。産業革命後、資本主義経済が発達すると、次第に生まれてくる社会のゆがみに対する処方箋として「科学的社会主義」なる考え方が出てきます。世界恐慌後には、専門家たるテクノクラートが経済を制御すべしというヴェブレンの主張が再評価されたり、化学者ソディが経済学に熱力学を導入すべしと主張したりしています。少し乱暴かも知れませんが、天才物理学者が難事件を解決するという某テレビドラマが人気なのは、世間の閉塞感がこうした「理系っぽいもの」に救いを求めているからなのかも知れません。実におもしろいです。
今回の議論の最後で、私は社会の中での役割分担という話題を出しました。一部の非常にずば抜けた能力を持つ人が、自分が追求したいことをパッションの赴くままに追求することが真の科学者の役割とすれば、そうして生まれた科学技術をリスクを管理していかに社会に役立てるかという役割と本来切り分けられているべきではないかと思います。
番組のテーマ上、社会問題にフォーカスしての話題となりましたが、これらは数理科学のごく表面に過ぎず、数理科学はそれ自体がもっと奥深くエキサイティングなものです。私は数理科学の専門家でもなんでもないですが、番組を通じて少しでもたくさんの方々に、数理科学の楽しさやものごとの本質をあぶり出す数理的思考法のチカラと限界について興味をもって頂ければなと思いました。