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2015.04.24
2013.03.01

「僕らの復興論」番組収録後インタビュー:開沼 博

2013年3月9日(土)0:00~1:15放送のニッポンのジレンマ「僕らの復興論」収録後、出演者のみなさんにインタビューを行いました。

開沼 博 (カイヌマ・ヒロシ)

1984年生まれ。社会学者。福島県出身。福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員、東京大学大学院博士課程在籍。専門は社会学。著書に『漂白される社会』(ダイヤモンド社)、『フクシマの正義「日本の変わらなさ」との闘い』(幻冬舎)、『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)、『地方の論理 フクシマから考える日本の未来』(佐藤栄佐久氏との共著、青土社)、『「原発避難」論 避難の実像からセカンドタウン、故郷再生まで』(山下祐介氏との共編著、明石書店)など。

――番組の視聴者が、復興のために明日からできることは何でしょうか?

開沼 あえてうざい返し方をしましょうか。「何でしょうか」とか2年たっても聞いてくる人がいるんなら「復興」に中途半端にかかわらないほういいかもしれないですね。
 編集後に使われているかはわかりませんが、番組の中では子どもにもペット・家畜にも復興ボランティアとして役立つ可能性があるという話をしました。それぞれの個人・集団の目の前に無数の「明日からできること」がある。被災地にいようがいまいが関係ありません。

 にもかかわらず、そこから目をそらそうとする。「見て見ぬふり」をする。大きなものを批判してみたり、お涙ちょうだい話に泣いてみたりする。自分が不安だからって「そこは危ない」「逃げろ」と無責任に言う。「もうだめだ」と絶望してみるのが「知性的」だと勘違いし、自分は安全なところに身を置いて何の抵抗もしてこない敵をでっち上げて吊るしあげてみたつもりになって「社会の変え方がどうこう」とか御託並べてスベる。スベってクズみたいな言い訳をする。それで2年間たった。だから良くも悪くも現状がある。「明日からこういうことをしようと思っているんだけど、どうだろうか」という問いなら答えられますが、今さら「明日からできることは何ですか」とか言っちゃうのは話にならない。ペット・家畜のほうがよっぽど役に立つ。

 「中途半端な善意」が、以前どおりの日常を取り戻そうとする地元の人や志を持って被災地に赴き地に足のついた活動をしてきた人にとって迷惑になっている部分がある。「部分がある」って言わないと怒る人がいるから気をつかって言いますが、現実的に迷惑は生じていて、それはもういらないからこういう話をしているわけで、別に斜に構えて皮肉を言っているわけでもなんでもない。

 「復興」という言葉を使うこと自体の上滑り感、もう復興と言わないほうがいいかもしれないなんて話題が藤沢烈さんから出て、さまざまな広がり方をしました。答えを見つける気もないのに、「何が答えなのかわからない」と言い続けないと不安な人の「中途半端な善意」の上にたった「復興」の必要性はもはやないのかもしれない。

 そうではなくて、むしろ「震災前からさまざまな日本の負の部分を押し付けられ抱え続けてきた社会の脆弱な部分、たまたま今回は被災地となったところ」をいかにケアしていくのか、震災前からあった問題を「見て見ぬふり」せずに日本全体で明日から向き合えるのか、という観点こそ必要です。世間で言われる「(イメージ上の)復興」と「現実の復興」の間にあるギャップは深まっています。「現実の復興」は「地域づくり」とか「コミュニティ再生」とかいう言葉のほうが近いものかもしれない。じゃあ、やれることはいくらでもある。その地域に観光に行って知り合いをつくってみよう、地元産品をネットで買ってみよう、友達に出身者がいないか調べてみよう……。あるいは復興とも被災地とも何の関係もないような、身の回りにある「社会の脆弱な部分」にしわ寄せが来ている問題に向き合うことも、遠回りなようで実は復興や被災地に役立つ社会のあり方の新しい仕組み作りに直結するかもしれない。

 社会の問題の核心を多くの人が「見て見ぬふり」できてしまう状況が進むことを、僕は「社会の漂白」と呼んでいます。福島に関する研究と並行して進めてきた仕事をまとめた『漂白される社会』(ダイヤモンド社)を2013年3月8日に刊行します。震災も、それ以外のさまざまな問題も「漂白される社会」の中で、広く課題を提示し、解決策への道筋の始発点を多くの方に知っていただきながら復興について考え続けていきたいと思っています。