「格差を超えて 僕らの新たな働き方」番組収録後インタビュー:石井光太
2013年1月1日(火)23:00~25:30放送のニッポンのジレンマ「格差を越えて 僕らの新たな働き方」収録後、出演者のみなさんにインタビューを行いました。
石井 光太 (イシイ・コウタ)
1977年生まれ。作家。『物乞う仏陀』(文春文庫)でデビュー。著書に『神の棄てた裸体』、『絶対貧困』、『レンタルチャイルド』(以上、新潮文庫)、『ニッポン異国紀行』(NHK出版新書)など多数。責任編集として『ノンフィクション新世紀』(河出書房新社)がある。
――「格差を超えて 僕らの新たな働き方」の討論を終えられて、率直な感想をお聞かせください。
石井 そうですね……難しいですね(笑)。格差というテーマでしたが、何を定義して格差というのかが非常に曖昧だったかなと思います。いろいろと話を聞いていて、どうしてもやっぱり勝者のほうにとっての格差理論だったり、勝者にとっての働くことの意義だったりというような意味合いが、僕には強く聞こえました。
例えば、「企業で働きながら、副業をすればいい」とか、「フリーになっても、友人から仕事をもらうことができた」という意見がありましたよね。確かに、それは理屈としては間違っていないと思います。でも、「副業をできる環境や能力がない」、「仕事をくれるような友達がいない」ということが現実としてあるからこそ存在する格差もあるのではないでしょうか。
格差には、多くの形態があります。この番組に出演している人々が直面している格差と、最終学歴が中学校である人たちが直面している格差と、病気を抱えている人たちが直面している格差とはまったく違います。どれも格差であることには間違いないのですが、同じように論じてはいけないものだと思うのです。
しかし、今回の議論の中では、どうしても出演者たちの身の回りの格差に言及することがほとんどでした。もちろんそれはそれでいいことですし、どんどんやるべきことだと思います。一方で、それだけでは格差のほんの一部を論じたことにしかならないのも事実です。
もし「格差を超えて」「新たな働き方」と言うなら、もっと広い議論をするか、もしくは最初から格差の概念を定義したうえで話を進めていくべきではなかったか、と思っています。
ある出演者が休憩中に次のような趣旨のことを話していたのが印象的でした。
「自分はうまくいったほうなので格差というのがどういうものかわからない。だから何も言えない」
これは僕自身についても同じことが言えます。でも、だからこそ、わからないことをわかろうとしなければならないし、わからないからこそ語るべきだったのではないかと思うのです。
それができないまま番組の収録を終え、普通の会社員の日給よりはるかに高額な謝礼をもらい、タクシーチケットをもらって帰る自分が非常に後ろめたいし、情けない。
今はそうした後悔だけが胸に残っています。
――番組は2013年元日の放送です。2013年のご自身の抱負を教えてください。
石井 僕が目指しているものは、とにかく人間の美しさというものを描きたいっていうだけなんですね。そして、その美しさというのは、ある種の社会とか制度とか、そういったこととは全然違ったところにある美しさだと思うんです。
僕は前に『遺体』(新潮社)という東日本大震災の遺体安置所を舞台にしたルポを書きました。震災のルポは政治家批判や東電批判につながることがあります。もちろん、それはとても必要なことでしょう。
しかし一方で、いちばんの被害者である「遺族」はそんなことよりも違うことに直面していました。流された自分の家族はどこの遺体安置所に届けられたのか、遺体は火葬できないまま腐敗してしまうのか、助けられなかった自分が情けない……。そんなとき、遺体安置所の片隅では、老人がそんな遺族の気持ちを支えたり、遺体の尊厳を守ろうとして、必死に話しかけていました。「Aさんが亡くなったのはあなたのせいじゃないよ」と家族に言ったり、Aさんの遺体に向かって「今日こそ火葬の順番が来ればいいね。そしたら家族のもとに帰れるよね」と言ったりしたのです。
僕はそういう人間の姿にこそ「美しさ」を感じるのです。そしてその美しさを少しでも多くの人に伝えたいと思って筆を取るのです。その美しさを書くためであれば、その舞台が震災であろうと、事件であろうと、海外の貧困問題であろうと何でもいいと思っています。それが僕にとって書くということなのです。
今後の仕事で具体的なものとしては、震災で僕自身が体験したことを描いた『津波の墓標』(徳間書店)を2013年の1月に出す予定です。それ以外にも、今連載をしている戦後の上野駅の地下道で暮らしていた浮浪児を描いた『浮浪児1945』を単行本化したり、事件もののルポを書いたりといろいろとあります。一つ一つに魂を込めて書いていければと思っています。