「僕らの国際関係論」番組収録後インタビュー:宇野常寛
9月29日 0:00~放送予定のニッポンのジレンマ「僕らの国際関係論」収録後、出演者のみなさんにインタビューを行いました。
宇野 常寛 (ウノ・ツネヒロ)
1978年生まれ。評論家、「PLANETS」編集長。著書に『ゼロ年代の想像力』(ハヤカワ文庫JA)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)など。
―「僕らの国際関係論」の討論を通じて、特に伝えたかった論点は何でしょうか。
宇野
ポイントは2つあります。
まず1つ。昔と今とで、日本が文化的に「世界に対して開かれている」ことの意味ってだいぶ変わったんじゃないかということです。昔は「世界へ開かれている」=知識や文化の「輸入」であり「外から何かを持ってくる」ことでしたが、今はそれと同じくらい「輸出」であり「日本で育まれたものを外へ打ち出していく」ことが大事です。そして「外国」といったときの対象も昔はほぼ欧米を意味していたのだけど、今はアジアをはじめまさに全世界を視野に入れないと意味がない。
この前提を皆さんと確認できたのはよかったなと思います。そうじゃないと、「最近の若者は内向きだ、ドメスティックでけしからん」と年長世代が説教して溜飲を下げるだけのありきたりで、そして旧い枠組みに捉われた内容になってしまう。そんなものわざわざ「ジレンマ」でやる意味はないですからね。
もう1つは、議論が進む中で個人的に考えたことですね。番組で繰り返し出てくる「他者へ開かれている」と言うときの「他者」は、文学や思想のジャンルではよく出てくるマジックワードなんですよ。だいたい「他者への開かれが大事だ」というんだけど、その「他者」って「開かれた態度」って具体的に何?って論理的につきつめると誰も説明できないんですね。せいぜい「意識を高く持って寛容であれ」みたいな誰にでも言える当たり前のことに着地するか、「他者」も「開かれた態度」も人間の知性には到達できないものなんだ/でもそれをあきらめずに祈り続けることが大事なんだ、という入り組んだロジックになっちゃう。で、後者は前者を詳細に言いなおしているだけなんで、実はやっぱり「意識高く持って常に寛容であるように気をつけろよ」くらいのことしか言えていない。それって松井秀喜の魅力は何ですか、と尋ねられて「バッティングです」と胸を張って答えるようなもので、実は何も言っていない。
じゃあ、どうすればいいのか。僕はこの問題を考える大きなヒントが現代の情報技術にあると思います。たとえばインターネットが何を僕たちに証明したかっていうと、「空気を読む」とか「他者に開かれる」とか人間のコミュニケーションのかたちって今までは「見えないもの」で「記述できないもの」で、だからこそマジックワードとして便利に使われてきたんだけど、それがログというかたちで「見えてしまう」「書けてしまう」ものになったということなんですよね。これはあくまで一例です。要は今まで見えなかったもの、計測不可能だったものが見えるように、計測可能になると人間観や社会観が結構変わってしまうってことです。
そして日本の情報社会はすごくユニークな発達を遂げていて、今、ここで起っている現象を考えると20世紀の思想が「他者」とかいって誤魔化してきたものに一石を投じることができるかもしれない、という議論がずっとあって、僕はどちらかと言えばそっちに共感しているんです。番組にあまり関係ない話で恐縮ですが、収録中にずっと考えていたことなのでとりあえず話しておきます。
―今、行ってみたい国はありますか。
宇野
あさって(収録日は9月2日)からアメリカ・ロサンゼルスに行って観光してきます! 友人である堀潤と観光しつつ彼と作るNPOの話などをしてきます。どこに行くか、じゃなくて、誰に会うか、が大事なのです。
※9月25日追記: いや、ロスの広い空と輝く太陽、最高でした! やっぱり「どこに行くか」も大事ですね。激しく反省し、前言撤回します。(宇野)