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2015.04.24
2013.06.26

「96条の創造力」とは? ――憲法と政治のジレンマ【第3回(全4回)】:木村草太×浅羽祐樹

「憲法」をめぐる問題を自分たちの問題として論じた『憲法の創造力』 の著者・木村草太氏と、『したたかな韓国』 で成熟した政治センスを身につけようと提案した浅羽祐樹氏。法学、政治学、それぞれの立場から現下の日本が抱える課題について論じていただきました。4回にわたってお届けします。

木村 草太 (キムラ・ソウタ)

1980年生まれ。憲法学者。東京大学法学部卒業。同助手を経て、現在、首都大学東京准教授。助手論文を基に『平等なき平等条項論』(東京大学出版会)を上梓。法科大学院での講義をまとめた『憲法の急所』(羽鳥書店)は「東大生協で最も売れている本」と話題に。著書に『憲法の創造力』(NHK出版新書)など。

浅羽 祐樹 (アサバ・ユウキ)

1976年生まれ。新潟県立大学政策研究センター准教授。専門は比較政治学、韓国政治、国際関係論、日韓関係。著書に『したたかな韓国~朴槿恵時代の戦略を探る』(NHK出版新書)、木村幹・佐藤大介両氏との共著に『徹底検証 韓国論の通説・俗説』(中公新書ラクレ)。

同じに見える現象でも、異なるアプローチから見えてくるものがある。憲法と政治、法学と政治学、そして日本と韓国……「96条改正」から、そもそも「憲法とはどういうものか」。第3回は、日々、更新される私たちの憲法と、その創造力について論じていただきました。

■96条先行改憲は「革命」に匹敵する?

浅羽  憲法改正手続きを規定している96条については憲法学者の間でも多様な評価がされていると承知しています。96条を改正するのは「革命」に匹敵するとお考えの先生もいますが、木村さんはどう考えていますか。

木村  そもそも、「96条によって96条自体を改正することはできない」という憲法96条改正限界説、あるいは、憲法96条改正論理的不能説は、50年ほど前まではメインストリームの学説でした。ただ、岸内閣が退陣して、改憲を政権が本気で議論しなくなった時期から、96条についての議論はあまりされなくなっていました。安倍政権が96条改正を言いだしたので、現在の研究者がほぼ一致して、発議要件の緩和に反対しているという状況です。

 まず、96条の趣旨は、「憲法改正を発議する場合は、与野党で十分に慎重な議論をして、広範な合意の得られた改正案だけを提案してください」ということです。私はその趣旨自体はもっともなものだと思います。ですから、96条改正に政策的に賛成するか反対するかと言われれば反対です。

 改憲の発議に三分の二の合意が必要だということは、国会の少数派である野党に、改憲拒否権があるということです。例えば今の政治状況で中央集権を進めようとすれば、地域主権を唱える維新の会などが反対するでしょうし、9条について極端な改正をしようとすれば、公明党などを含めたいわゆる「平和勢力」が反対するわけです。野党の背景にもたくさんの国民がいますから、そういう人たちとも合意できる改憲案を出してくださいということです。

 次に、96条は96条によって改正できるのかという論点ですが、もしも改正の手続きを通ったとしても、96条改正限界説や96条改正論理的不能説を裁判所がとるなら、改正自体が違憲だという判決を出すはずです。

 その場合、法律家はどんな訴訟形態で争えるのか、ということを議論するわけですが、議員定数不均衡に関する選挙訴訟と同じような感じで、そもそも96条改正の発議は違憲・違法だから、それ以降の手続きもすべて違憲・違法で無効であるとして、国民投票の無効確認を求める訴訟を、国民投票法の無効訴訟により行うことが考えられます。

 それ以外にも、いくらでも訴訟の種は絶えません。例えば要件緩和された96条の下で9条の改正がなされ、「国防軍」が憲法で定められたと仮定します。その国防軍が、現在の憲法9条ではできない活動を実施することになり、国防軍人に作戦命令を出したが、軍人さんが、そのような活動は、そもそも憲法違反ではないかと考えて、良心的に命令拒否をし、懲戒処分を受けたとします。懲戒処分の取り消しを求めて訴訟を提起する際に、そもそも96条の改正や、改正された96条による9条の改正は違憲・無効であるから、作戦命令は違憲・無効であり、懲戒処分も取り消されるべきだ、などと主張することも考えられます。 そうした場面でどちらが勝つかは、なんとも予測が難しいですが、ともかく火種は絶えないでしょうし、混乱は続くだろうと思います。

 96条自体は96条によっては改正できないという憲法改正限界説や論理的不能説が、学会で大多数を占めているのは確かなので、裁判所がそれに従う可能性はあります。私自身は、学説の大多数の立場も理論的には成り立つと思いますが、96条が絶対に改正できないと考えているわけではありません。

■憲法改正の前にできることはたくさんある

木村  各国の改正要件と、改正限界の関係をいろいろ調べた結果たどり着いた考えですが、私の立場は、改正発議の要件を総議員数の三分の二から過半数に下げると、それによっては改正できない条項、つまり改正限界が増えるというものです。憲法というのは非常に重要な国のルールを定めています。憲法改正手続のデザインには二つのアプローチがあって、一つは、改正できない条項をたくさんつくったうえで手続きを緩やかにするという方法です。手続きを緩やかにする反面として、改正できるのは比較的優先順位の低い、言い換えると、たいしたことのない条項に限定するのです。もう一つは、大事な条項も改正できるようにするかわりに、手続きを重くする方法です。

 現在の日本国憲法は、わりと後者のアプローチに近い。天皇制とか集団的自衛権の制約というものであっても、十分に慎重な議論がなされたうえで国会の三分の二、国民投票の過半数という厳しい手続きを経たのであれば、改正してもよいと思います。その意味では、絶対に改正できないようにするのは不適切です。だけれども、国会の過半数つまり、政権与党単独の判断と国民投票の過半数の承認があっただけで、天皇制を廃止したり、9条の中身を変えたりしてよいかというと、それは、やはり違うだろうということだと思います。

 ですから、もしも手続きを緩くして、過半数までハードルを下げるならば、改正してはいけない規定が増えるはずです。人権条項はもちろん、1章の天皇制とか2章の集団的自衛権への制約にも手をつけられないという解釈が成立するのです。それが妥当ではないかというのが私の立場です。理論的には、かなり自信のある説で、裁判所がこちらの見解を採用する可能性も高いと思っています。

木村草太さん。

浅羽  木村さんの本の、特に終章を読むと、憲法改正権力と憲法制定権力がどういう関係になっているのかという疑問が、ぐるぐる回り始めるんですね。先日、来日したアントニオ・ネグリが「憲法制定権力(pouvoir constituant)」とも訳されるべき本を書いていますが、日本語では「構成的権力」(『構成的権力―近代のオルタナティブ』松籟社、1999年)となっています。「構成的」だと、すでにあるものの中で一部分を構成しているというニュアンスです。それはともかく、「憲法制定権力」とか「構成権力」というのは、「未だ来らず」なのですが、今まさに新しいものをそれこそ「想像」し「創造」するということになります。

 憲法改正権力は憲法制定権力そのものではなく、すでにある憲法に基づいて、その一部分を構成しているものだとすると、内容だけでなく手続きについても、その限界というのは自ずと生じるのではないでしょうか。「憲法の創造力」を英語に訳すとどうなるのでしょうか。

木村  私が執筆中にイメージしていたのは、やはり、creativityになるのでしょうか。奥平先生の「憲法の想像力」、長谷部先生の「憲法のimagination」を、自分なりに実践するなら、「憲法のcreativity」にたどり着くだろう、という感覚ですね。

 憲法制定権力と憲法改正権力については、憲法学でもいろいろな議論がされていますが、憲法制定権力が何かというのは、事実の問題と規範の問題を分ける必要がある、と私は考えています。

 まずは、事実として誰に従うかという問題があります。例えば、私が今、拳銃や爆弾を持っていれば、この会場に集まっているみなさんを従わせることができます。その意味では、この空間の憲法制定権力は、爆弾を持っている人にあるということになるかもしれない。

 しかし、事実としてはそうだとしても、規範としてそれが正当化(justification)できるかはまた別です。脅迫・強要は違法だから、その影響下でつくられたものは効力を持ってはいけない、という規範的な議論があります。規範を逸脱した憲法が制定されることは事実としては当然あるけれど、規範としてそれが正当かはまったく別問題です。その二つを分けて議論する必要があります。

 憲法制定権力と言った場合、事実として誰に従ったのかという議論をしているのか、それとも、それが正当だったのか、その規範を前提にすべきか、という規範的な議論をしているのか、その違いをしっかり意識して議論しなければならないと私は思います。

 では、どのような制定過程であれば正当な憲法制定だと認めるかということですが、それは、いろいろな考え方があって、なかなかこうですというかたちでは言い切れないところがあります。しかし、基本的には、内容的に妥当でない規範には、それに従うべき基礎が欠けるという立場です。

 私自身は、事実として新憲法が制定されても、規範的に妥当でないなら、それに従うのはやめろと言うでしょう。他方で、事実として成立していて規範として妥当であれば、それに従えばよいのではないか、と言うと思います。

■文章に書かれたものだけがルールではない

浅羽  書名『憲法の創造力』にある「の」が、様々な解釈をそれこそ生み出していると思います。憲法「を」創造すると読みたい人もいるでしょうし、憲法「が」創造すると読みたい人もいるでしょう。木村さんが「の」に込めたのはどういう思いなのでしょうか。

木村  おっしゃるとおり、両方あると思います。人々が日々生きていくなかで、人らしく生きていくのに困難な状況があるならば、憲法の要求する規範に従って、その状況を変えていかなければならない、という意味では、憲法「が」社会を創造していくわけです。その際、憲法を勉強することで、自分とは違う考えを持つ人がいて、その人たちが困っているということに、想像力を働かせることが、創造力の原動力だと思います。

 他方で、社会情勢が変われば、今まで考えたことがなかったような問題が起こることがあります。そのときには、憲法の根幹にある「個人の尊重」の理念に従って、本来、憲法はどうあるべきか、を考え直さなければならないでしょう。そういう意味では、憲法「を」創造しなければならないのです。

 先ほどもお話ししたように、憲法というのは、文章に書いたからといって即座にそれが日本のルールになるかというと、そうではないわけです。専門用語で「実質的意味の憲法」という言い方をしますが、書かれざるルールの総体が日本の国家を成り立たせている。そうしたルールは、憲法典や過去の判例の文言に拘束されながら、日々つくられているのです。

 私がよく出す例ですが、天皇という存在がいるということは日本国憲法にも文章で書かれている。しかし、天皇を世襲するのがどういう家の人かということは日本国憲法には書いていない。だからといって、明日から木村家が天皇家ですと言ったら、みんな、それは違うと言うでしょう。

 それは、やはり天皇家というのはあの家の人たちなのだという書かれざるルールがあるからです。そういう意味で、私が『憲法の創造力』で言っている「憲法」というのは文章のことではなくて、我々の頭の中にあるルールとしての憲法です。

 このルールとしての憲法というのは、成文化することによって変化しないようにフィックスされているわけです。しかし、日々、いろいろな問題が生じていますし、日本国民も日々入れ替わります。

 ルールとしての憲法は、その中で、日々創造される。我々一人ひとりが日本国憲法を、あるいは国際秩序としての憲法を日々つくっているわけですが、そこで、変なふうにつくらないでください、そのために想像力を持とうという意味を込めています。

■憲法の「憲」とは

浅羽  「憲法」というのは英語だとconstitutionですね。これだと動詞のconstitute(構成する、成り立たせる)の派生語だとか、いろいろ「想像」できるわけですが、日本語の「憲法」という漢字二文字からはなかなかそのような「想像」がしにくいですね。古くからある言葉ですが、どうにもいかつくて、creativityの「創造」にもつながりにくいのではないでしょうか。日本語で「憲法」というときと、英語でconstitutionといったりドイツ語でVerfassungというときでは、位相のズレがあると思いますか。

木村  やはり、日本語で憲法というと、六法全書に書いてある文章のことだと普通は思うと思います。だからこそ、日本で憲法を教えるときには、「形式的意味の憲法」と、「実質的意味の憲法」とがあるが、これから学ぶのは、「実質的意味の憲法」の内容です、みたいなところから始めるんでしょうね。欧米では、constitutionとかドイツ語でVerfassungといったときには、文章としての憲法も思い浮かべるでしょうが、おそらくは頭の中にあるルールとしての憲法を思い浮かべることが多いと思います。Constitutionはconstitute(構成する)の、Verfassungもverfassen(作成する)の名詞形ですから、文書で画定された動かないものというより、日々社会をつくっているという動態的なイメージを喚起する言葉です。こうした言葉と「憲法」という日本語の語感にはやはりズレがある。憲法という訳が悪いとは思いませんが、ルールというのは、紙に書かれているだけでなく、人々の頭の中にあるというのは常に意識しないといけないと思います。

浅羽  憲法の「憲」という字はほかではあまり使わないですよね。

木村  「非常に大事な」という意味で、国憲をみだりにしない、というような国の根本を表現するときなどに使います。それ以外は、あまり使われない。だから耳なじみのない言葉と言われればそうです。「神聖不可侵の不磨の大典」的なちょっと遠いイメージになってしまいますよね。国のルール、日本国管理規約とかに翻訳すると分かりやすいのに、と言われることもありますが、そうするとやはり独特の意味を持ってしまうので、なかなか難しいですね。

■憲法学と政治学の本質的コラボに期待

浅羽  「憲法と政治のジレンマ」で最近、非常におもしろいと思ったのは、『論究ジュリスト(2013年春号) No.5』(有斐閣、2013年)で「いま、選挙制度を問い直す」という特集が組まれていたことです。木村さんは今日の対談も含めて政治学とのコラボレーションについて可能性や魅力を感じますか。

木村  憲法学は政治学を参照するのが自然な学問だと思います。憲法学の中でも、人権論の部分については、それ自体が独立しているところがありますが、統治機構論の部分については、こういうルールをつくると政治家や国民がこう動くのでよいとか、よくないとかという議論をするわけです。ルールをつくるとこうなりますという「読み」を入れる時点では、理論だけでやるのに限界がある。

 実際、「大統領制が導入されると混乱が起きる」という命題は、法学でも検証されないといけないものの一つです。私自身はずっと人権関係の憲法訴訟論を研究していたのであまり参照する機会はありませんでしたが、統治機構論をやる場合は当然参照します。学会でも政治学者、政治哲学者の論文が引用されて報告されることは珍しくありません。その意味では、当然、参照しなければいけないと思います。

浅羽祐樹さん。

浅羽  木村さんは将棋に造詣が深いのですが、棋士たちは対戦相手と自分との間で先の先まで読みながらそこから逆算して「次の一手」を指しますよね。政治のプレーヤーたちも、相互作用の中で、ある種のルールはある種の帰結をもたらしやすいのでこれこれの戦略で臨んでいるということに、政治学も注目しています。私は、そうした各種制度、ルールの中でも一番規定力が強いのが憲法だということで、特に憲法に惹かれます。

木村  私も、憲法の規定力が実践でどうなのかということは政治学から勉強させていただきたいと思います。例えば、浅羽さんのご著書『したたかな韓国』や論文の中で、選挙の時期によってプレーヤー間の関係も変わるということが分かりました。韓国では大統領の任期が五年で国会議員の任期が四年ですから、大統領選出の直後に総選挙がある場合と、かなり間があく場合があって、それによって大統領・政党間の関係も異なってくるということを書かれていましたね。そうした研究は実は立法によってルールをつくることを考えるときに参考にしなければいけないと思いました。ですから、今後もぜひ、浅羽さんの本で勉強させていただきたいと思います。

浅羽  こちらこそです。昨今異なる領域の間でコラボレーションが盛んになりつつありますが、学問の世界でも、ただ集めましたというだけの論文集は結構あるものの、どこまで共同作業になっているかというと疑問が残ります。本当に意味のあるコラボを目指すと、正直、同じ専門領域の中でも難しいところがあります。もし、憲法学と政治学のコラボが可能で、有用であるとしたら、どういうかたちがありうるでしょうか。

木村  憲法学でも、統治機構論というのは政治学そのものです。憲法学は、ルールから生じる実態の検証をあまりしないので、そうした検証を政治学者の方に答えてもらうのがよいかもしれません。例えば、俗説では雨が降ると公明党が勝つと言われているが、そんなことはないとか、そういうふうに答えていただくのは、すごく有意義だと思います。

 ほかにも、立法論もあると思います。政治学の方に理念とか制度の基本設計をしていただいて、最終的な実施設計はこうなりますねということを法学がやるというコラボレーションも考えられますね。法学者というのは制度を表現する専門家ですので、こういう狙いでこういう制度のほうがよいという提案があったとき、ではどういう条文をつくればいいかというのは意外と難しいんですね。自民党の改憲草案にしても、やりたいことは分かるんですが、法学者から見ると「あなたのやりたい政策をこう書いてしまったら、たぶん実現できませんよ」ということが結構ある。

浅羽  アメリカの大学だと、一、二年生で「ガバメント」という科目があって、行政と立法の関係だけでなく、司法制度も含めて、制度と実態の両方についてトレーニングを受けることができます。日本の場合は、残念ながら、これに匹敵する科目がほとんどの大学で設けられていません。日本では政治学が独自の学部になっていなくて、法学部に属している場合がほとんどですから、本来はむしろ強みがあるはずだと思うのですが。

木村  エアポケットになってしまっている部分が結構あると思います。憲法の政府解釈というのはかなり真剣な法解釈学なのですが、法解釈の専門家はどうしても判決に目がいくのであまりそこに注意が向かない。政治学者でも研究してくださる方はいるのですが、法学の中でもマニアックな文章なのであまり研究している人がいない。憲法における統治機構解釈の本がもっと出てきてもよいと私は思います。そうしたところで協調関係が取れれば理想的ですね。


【第4回】へ続く…

構成:河村信

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