「ゲーム理論」と「ゲーミフィケーション」は何が違うのか?:井上明人
NHK「ニッポンのジレンマ」でもたびたび登場した現代社会を表すキーワード「ゲーミフィケーション」。“社会のさまざまな活動にゲームの要素を取り入れていくもの”と広く定義されることが多いが、そもそもなぜゲームが社会にとって重要なのだろうか? ゲーム研究者・井上明人が考えた。
井上 明人 (イノウエ・アキト)
1980年生まれ。ゲーム研究者、国際大学GLOCOM客員研究員。著書に『ゲーミフィケーション』(NHK出版)がある。
社会におけるさまざまな出来事を「楽しく」する
Q:ゲームを考えることが、なぜ社会の話とつながるのでしょうか?
A: 「君はこの国の中で勝ち抜くことがどういうゲームの構造になっているのか、まったくわかっていないね」
「ゲームの構造は変わったのだよ。もう、君の能力はまったく競争力がないんだ」
みなさんは「ゲーム」という言葉からどういったものをイメージするでしょうか。ドラマや小説の中だと、冒頭にあるようなセリフがしばしば登場しますよね。少なくとも「社会の中にはさまざまなゲームが存在している」ということを、なんとなくご存知なのではないかと思います。
社会の中にはさまざまなゲームが存在している。
「ゲームの設計を考える」というとき、それは「均衡の設計を考えたもの」と「モチベーションの設計を考えたもの」の二つがあります。近年、「ゲーミフィケーション」という言葉が登場して注目を浴びています。「ゲーミフィケーション」はコンピュータ・ゲームのノウハウや知見を社会に応用しようという運動ですが、「ゲーミフィケーション」は同じ「ゲーム」の話でも主に後者の「モチベーションの設計を考えたもの」です。
今まで、学者――特に社会科学者――が取り扱ってきた「ゲーム」の話のほとんどは、ゲーム参加者間の公平性やゲームのバランス(均衡)をどのように設計するかなどが主たる議論の対象でした。いわゆる「ゲーム理論」と呼ばれるものは、その中の一つです。主に「均衡の設計を考えたもの」はゲームの「メカニズム・デザイン」と呼ばれています。
たとえば、電波を利用する権利は誰がどのようにして得る制度を設計するのが望ましいか、ということがホットなトピックの一つになっています。この中に電波利用権を事業者間のオークションによって決めようとする「電波オークション」の考え方(※)がありますが、これは「メカニズム・デザイン」の代表例の一つです。今まで電波の利用権は総務省との関係によって決まるところがありました。しかし、電波の利用権をオークション制にすることによって、一定の資格をもった事業者であれば誰でもオークションに参加できるような公平な仕組みをうまく設計すれば、よりよい競争政策が打てるのではないか。そのような発想が「電波オークション」の考え方にはあるわけです。これは、経済学の一分野です。
また、米国の政治哲学者ジョン・ロールズが、「公平性」はなぜ望ましい価値として肯定できるのかを論じるために用いた道具立ても「ゲーム理論」でした。これらの議論では、いずれも「ゲーム」が、多様な人びとの利害関係をどう調整するかを決める“ルールの束”としてイメージされています。
一方で、コンピュータ・ゲームなどを設計する際に重要になるのは、公平性や均衡の問題以上に「どのようにして楽しくモチベートされる場をつくるのか」という点です。たとえば、『スーパーマリオブラザーズ』(1985年、任天堂)では、明らかにプレイヤーの操作するマリオはクリボーよりも遥かに強く、ここではマリオとクリボーの強さの公平性は問題になりません。
むしろ、プレイヤーがいかにして爽快感や達成感を得られる環境をゲームの中で提供するか。それがコンピュータ・ゲームが長い歴史のなかで積み重ねてきた設計技法です。私がゲーム研究者として主たる興味をもって議論をしてきたのは、「モチベーションを生み出す楽しさの設計」を考える分野の技法です。
「均衡の設計を考えたもの」と「モチベーションの設計を考えたもの」の二つは、ゲームのプレイヤーにとって重要な「ご褒美(インセンティブ)」を考える上でも少し異なっています。前者のゲームの均衡をどう設計するかを考える場合に、報酬として想定されるのは主にお金であったり生活上の利便性であることが多いかと思います。一方で、後者のモチベーションをどう設計するかということであれば、お金などの報酬が得られることとは関係なくプレイヤーが自発的に興奮してしまうような報酬(内部報酬)を考えます。たとえば、コンピュータ・ゲームの中で敵のボスをどうやって倒そうかと考えてプレイしているときに、現実にボスを倒すといくらのお金がもらえるかを考えると楽しくないでしょう。このゲームにおける内部報酬はコンピュータ・ゲームで遊ぶ人にとっては、ごく直感的にわかることかと思います。
コンピュータ・ゲームは内部報酬を考える。(Photo:Goon Squad Loves the Nintendo DS By GoonSquadSarah)
ゲームを考えることが、なぜ社会の話とつながるのか。ここで質問に戻りましょう。
社会的に重要な「ゲーム」の設計を考える場合は、主に前者のような公平性や経済合理性などの問題に主眼が置かれてきたのだと思います。たしかに、現実社会では人びとの利害関係をどう調整し、公平性やイノベーションを成立させるための適切なバランスを考えていくことはとても重要なことです。
しかし、社会のなかにある様々なゲームは、ある程度の公平性を成し遂げているかもしれませんが、それは一人ひとりにとって必ずしも楽しいものではありません。勉強が楽しくて仕方なくて東大に入れてしまうような人や、ワーカホリックで仕事が楽しくて仕方のない人にとっては、現在の社会のなかにあるゲームでもすでに楽しいと思えるのかもしれませんが、学校の勉強が楽しくて仕方ないという人は少数派だと思いますし、労働は楽しいものである以上に苦しいものだと思います。
もちろん、一定の苦しさがあることは重要ですが、あまりにも苦しいと人はそれに向き合うこと自体をやめてしまいます。実際に、学校という場所が苦しければ登校拒否という選択をする人も出てくることになるでしょうし、労働が苦しすぎて鬱病になってしまう人は数多くいます。
勉強、労働、家事、健康管理など、社会におけるさまざまな出来事を「楽しくモチベート」されるようにすることによって、世界をもう少しいい場所にすることができるのではないか。それが「ゲーミフィケーション」という言葉が考えようとしているゲームの設計です。社会のなかにあるゲームの公平性や効率性のバランスを再設計して調整することも大事ですが、それ以上に「楽しい」ものとして再設計することも大事だと思います。質問に質問で返して何ですが、ジレンマをご覧になられているみなさんはどう思いますか?