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2015.04.24
2013.04.22

「“絶望の国”の幸福論2013」番組収録後インタビュー:水無田気流

2013年4月28日(日)0:00~1:00〔土曜深夜〕放送予定のニッポンのジレンマ「“絶望の国”の幸福論2013」収録後、出演者のみなさんにインタビューを行いました。

水無田 気流 (ミナシタ・キリウ)

1970年生まれ。詩人、社会学者。東京工業大学世界文明センター・フェロー。著書に『無頼化する女たち』(洋泉社)、『平成幸福論ノート』(田中理恵子名義、光文社)、詩人として『音速平和』『Z境』(思潮社)など。

高度成長期を人にたとえると「青春時代」

――なぜ日本では「幸福論」がテーマになりうるのでしょうか。

水無田  若者が、自分が幸福かどうかを自問自答せねばならなくなり、「自分探し」――安藤さんが、「青い鳥症候群」と言っていましたが――をするようになりました。これは、日本がある程度の成熟経済状況に移行したために起こっている問題です。
 高度経済成長期、日本の社会全体は青春時代でした。当時の人はがむしゃら=ユーフォリア(イタリア語で幸福感、多幸感の意)ともいえる状態になり、個人として立ち止まって幸福について考える必要はなかった。
 しかし青春が終わって成熟に入ったとき、日本に需要は不足しはじめました。たとえば、耐久消費財もひと通り行き渡ってしまった。今までのようにがむしゃらにやっても、モノは売れない。私たちは、何を生きる目的にするべきなのか……。
 詩人で思想家の吉本隆明さんの講演を生前拝聴したときのことを思い出します。観衆は団塊のおじさまだらけ。会場からこんな質問が出ました。
 「なぜ、日本は“縮小、縮小”とばかり言われる社会になったのか。私にはそれが我慢できない」と。
 縮小それ自体に耐えられない世代と、最初から成長がありえないから自分の幸福を考えている世代が、話が合うわけがないのかもしれない。
 しかも今、身の丈にあった消費、身の丈にあった幸福というものが、人それぞれに極めて多様化し、見えづらくなっています。だからこそ、自問自答してしまうのでしょう。
 番組で紹介したような若い人たちが、幸せだとか資本主義の限界だとか考えなければならなくなっている事態について、上の世代が想像力を持っていないことも、問題だと思います。

“一人高度成長期女”の幸福論

水無田  自分の話をしますと、私は家庭の事情もあって、自分は幸福なのか? と考える余裕がないまま、今に至っています。学部を出てすぐに親が亡くなり、家族が入院し、看病やその後のリハビリを手伝いながら働くことが大変だったこともあり、結局、勤めていた会社をやめました。たまたま大学院を受験して受かったからいいものの、がむしゃらにやるしかなかったのです。自分探しをする余裕がなかった私は、ある意味自分の人生のなかに高度成長期があったようなもので、“一人高度成長期女”ですね。……よく考えたら、自分のことだけを考えている暇なんてなかった。
 でも、目の前にあるタスクを一生懸命こなし、ちょっとずつやってきた結果、なりたいけど絶対に自分にはなれないと思っていたもの――「物書き」になることができた。三度の飯よりも好きな、物を書くこと。それを仕事にできるのは本当に幸せです。
 父は大手製造業で人事の仕事をしていました。「おまえは好きなことばっかりやってるから、何をやってもダメなんだ」とずっと言われ続けてきました。「仕事っていうのは、苦労して、一生懸命辛い思いをして、ようやくお金を得られるものなんだ。なのにおまえはなんだ、好きなことばっかりやって」……と。流した汗のぶんだけ報酬が得られるという労働観です(笑)。
 確かにそうなんだけれど、就職活動なども含め、自分に向かないことをたくさんやってきて、気がついたら最後に物を書くことだけが残っていたんです。書くことに没頭している間、幸せとか不幸とかとは無縁の状態になります。結果的に、読者が読んで幸せになってくれたら、私も一番幸せ。読んでくれる人がいるという幸せ。この幸せは、おそらく父が現役であったころの製造業中心の労働観・幸福感とは異なる種類のものなのでしょう。ただ、たしかに好きなことをやってはいますが、私は父のように仕事と余暇がきっちり区別されていません。遊びと仕事の区別も曖昧です。つねに書きもののことを考えながら生活していますから、ある意味私は父よりもワーカホリックかもしれません。

人は幸福になるために生まれてきた

水無田  スタンダールが「人間は、金持ちになるためではなく、幸福になるために生まれてきた」と言っています。
 つまり、お金を稼ぐために余裕をなくすのは不幸だけれど、幸せになるために青い鳥を探しても、やっぱり不幸なんです。カフカも、「すべての悲劇は、余裕のなさから生じる」と言っています。私自身、時間に追われて子どもを怒鳴るたびに、この言葉をかみしめていますが……。
 個人的な生活感としては、子どもが小さいと、家族それ自体の青春期みたいなものです。生まれて、立って、話すようになって、幼稚園に入って……次々にステージが変わり、あまり深く考えている余地がないほど。この歳になって、こんなに巨大な「青春」がくると思わなかった。子育てっていいものですよ、がむしゃらになってしまいますから。がむしゃらになると、幸せについて考えることはなくなります。それが逆に、すごく幸せなことかもしれない。いまわの際に、「あの頃、幸せだったなあ」って思うでしょうけれど、いまはそんな暇はありません。

――「個人」の幸福か、「社会」の幸福か。どちらを先に考えるべきだと思いますか?

水無田  すごく難しい問題です。
 社会としての幸福って、なかなか個人的には実感できませんね。でも、社会が幸福でないと、治安が悪化するなど、ぎすぎすした所に確実に現れるものです。ですから、「個人」の幸福も「社会」の幸福も、両方とも必ず必要なのです。
 社会学は人間の社会的行為について考える学問ですが、「幸福」の分析を苦手としてきました。「幸福」とは、非常に主観的な要素の強い事柄だからです。
 しかしこれまで主観的だと思われていた「幸福」を、個人と社会の間を橋渡しするものとして捉えるような理論が必要だと思い始めています。
 社会学者は、社会の状況という「体制」のほうに先に目がいきがちです。「個人」の幸せは、もちろん大事なんですけど、社会のほうに問題が何かあると思うと、まずはそっちを研究してしまう。
 でも、いま多くの人が、幸せについて考えなくてはいけない事態に直面していることに関しては、物書きとして、何か書く必要があるかもしれない。「個人」と「社会」の両方が並びたつような社会にしていくのが、私たち社会学者の仕事でもあるのだ、という思いを新たにしつつあります。

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